「24Frameの邪道経営哲学」第24回:発売のタイミングと向き合う時の哲学


ゲームの完成が見えてきたとき


OIHAGI SURVIVAL STREAMERは無事完成を迎えつつあります
「24Frameの邪道経営哲学」第24回:発売のタイミングと向き合う時の哲学

 さて,紆余曲折とドタバタを経て,完成してきました「OIHAGI STREAMER SURVIVAL」ですが,この発売に関していくつか考えるべきことが出てきました。

 そもそも,この作品の発売は2024年の8月末頃を予定していたのですが,それを遅らせて現在に至っており,また,発売日は公式にはアナウンスされていません。そこにはいくつかの逡巡と課題があるからです。

 逡巡の方はやや観念的な話になっていきますので,まずは具体的な課題の方から。一つは,延期の一因となった一部のデザインパーツにつきまして。

 まずは下記をご覧ください。

上記は開発中の画面でした
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 配信系サイトの意匠に準えたものを含んでいた本作の一部のデザイン。この辺りも社内で意見統一が取れていない部分があり,結果としては「部分的とはいえこれはパロディなのか?」という議論が発生しました。

 まあこの手の論争は枚挙に暇がなく,日夜どこかで血が流れているような話ですが,話が混線しがちなのは事実です。

 24Frame内でも,いろいろな意見はありまして,それは「まあ,いいんじゃね」というものから「恥ずかしい」というものまで,さまざまです。

 放っておくと世間でのこういったいざこざ同様に,わけが分からぬまま着地して,わけの分からないものが結論もないまま世に放出されます。
 あいまいな態度でのリリースも不可能ではないとしても,少なくとも会社としてはその態度が前景化することは許されないでしょう(ずいぶん真面目? な物言いになっておりますが,本連載は「邪道経営哲学」と題しております。念のため)。

あいまいな態度の禁止

会社には会社の態度というものがあるのです
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 なので,まず「まあ,いいんじゃね」は禁止です。
 なぜいいのか? あるいは悪いのか? を少なくとも我々自身は言語化して説明できる必要があります。
 スケジュールを使い果たしている,という事情があったとしてそれは「それでいい」「それがよい」ということの理由にはなりません。「もう作っちゃった」としても当然,周囲に対する「説明」は必要なのです。

 そして「説明」を始めるためには,その共同体に共通の尺度が必要となります。そしてその共通の尺度とは?

 これには大小,いろいろとありますが,我々の視界内で比較的広範に思え,かつ奇妙なことにもならなさそうな価値観というと……?

 それは「法律」ということになろのではないか,と我々は考えました。


法律が何を解決するのか?


法律とはつまり何なのか?
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 我々24Frameも創立15年を迎える会社ですから,顧問弁護士の先生についていただき,いろいろとお世話になっております。「各人の意見はともかく,法律ってどうなってんの?」ということを誰かが言い出すまでには以下のような議論がありました(分かりやすくするためにあえて表現を極端にしております。実際にはここまで常識のない言説のまかり通る組織ではありません,念のため)。

「いうほど似ていないじゃないか」
「面白ければいいじゃないか」
「ほかの作品でもこうやってパロっているじゃないか」
「大手が投資して作ったデザインへの敬意が感じられない」
「大手の会社がうちを訴えたりするわけがない」
「これが"あり”の会社だと思われたら既存の取引に影響がでないか」
「法律を気にしていては攻めた創作が行えなくなる」

 同じ会社のメンバーでさええこんなにグラデーションが出るのですから,世間一般ともなるともう,グラデどころじゃない幅広さでしょう。

 そんな広大な世間に厳格な枠組みを与え,こういった議論のすべての裁定者となりうる存在。それこそが法律家というものではないでしょうか。

 この時まではそう思っていました。

 そして,収拾のつかぬ議論は,顧問弁護士先生への問い合わせメールとして結実し,その返信を皆が待つ,というモードに皆,移っていったのでした。

最高のジャッジメント

法律はすべてを判断できるルール?
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 弁護士先生からのメールを待つ間,我々がおぼろげにイメージしていた内容は以下のようなものでした。

 「〜〜法,第〜条,〜項,他と照合し,本件は知的財産権の侵害に当たらぬため(または当たるため),発売に問題はない(またはこのような問題が起こり得る)と思われる」

 という感じですね。
 みなそれぞれに「自分が思っている通りの結論が来るだけなのに」と思いつつ,返信を待っていたわけです。

 しかし,数日置かずして担当弁護士から帰ってきたメールは以下のようなものでした。
 以下に意訳します。

「他人のふんどしで商売をしようとしているのなら,法律以前にその態度自体が問題です(法の場でも,根源的に問われるのはそこです)。自分のやろうとしていることがクリエイティブなのか,まずは自分の胸に聞いてみてください」

…。

……。

……!!

これにはぶっ飛びました。



法律以前の問題


いつだって真理は基本の中にある
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 「バレなきゃいいだろう」という文脈が自分の中にあるのであれば,まずはそれをクリエイターとして,いや一人の人間として猛省せよ,ということが書いてあるわけです。

 これを,いわゆる「士業」,すなわち世間からは「先生」と呼ばれる方に言われるということの衝撃。堅気の方にクリエイティブとは何か,の根本についての指摘を受けたのです。

 この衝撃は「そりゃそうだよな」という納得感ももちろんありつつ,言い知れぬ衝撃を以て我々に受け入れられたのでありました。

カウンターであるという言い訳


カウンターという自己卑下は最早成立しません(書籍『アメリカン・ニューシネマ 70年代傑作ポスター・コレクション ポスター・アートで見るアメリカの肖像』)
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 おそらく我々の意識下には自分たちの関わる業務がゲームやクリエイティブというものは「カウンターカルチャー」「サブカルチャー」であるので,多少ラディカルなところを攻めるのだ,攻めてもいいのだ,という意識。

 しかし実は「カウンター」であるには少なくともその向き合い先である「メインカルチャー」に対し,何らかの批評性を持たねばなりません。

 その根源には恐らく「アイデアの質はメインを越えるものがある」という矜持,プライドが存在していなければならないのです。

 少しでも「バレなきゃいいだろう」という意識が紛れ込んだ瞬間(またはそう見えるものを作ってしまった瞬間),クリエイターが本来持つべきプライドはすでにそこに存在しておらず,心根においてはただの泥棒と同じなのだ。

 との心境に至ります。

 そして法律というものも本来「わざと犯罪を犯すものを裁く」ためのものではなく「意図して道を誤ったものに対して償いの指標を敷いておく」ためのものなのではないか……。そんな気もしました。

 が,法律についてはあくまで僕の感想なので,おそらく間違っているでしょう。

 しかし「クリエイティブ」の基本として僕が感じたことは,間違いではありません。



今日のゲーム業界とは

この業界は「カウンター」なのか?
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 思えば,スタッフと話しているときにも「まともな仕事ができない我々はこういった仕事に身をやつすしかないんだよな。きついけどしょうがないよな」などという,中年からすれば照れ隠しとしての発言も,それをきいた別のスタッフは怪訝な顔をしている,ということがままあるな,と感じることがありました。

 最早彼らの多くにとっては「堅気になれない人の仕事」ではなくフラットにクリエイティブ業を「多くの人に力を与えることができる作品作りの場」であるのです。そしてそれは実の所事実であり,「カウンターだから」「カウンターか?」などという価値観は機能しなくなっているのでしょう。


そして再度発売に向き合う

この状態で,現在発売待機中です
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 そんなパラダイムシフトを経て,無事「OIHAGI SURVIVAL STREAMER」はもちろんデザインを整え,そのほかもろもろの調整を終え,発売を待っている状態です。

 そしてそれ以上に,これは我々のさまざまなものへの向き合いを大きく変えてくれた気がします。発売を待ちつつ,近々の発表と変わりゆく我々のマインドの旅の行く末に,今後とも乞うご期待!