Diablo 2:古典的名作を作るための人的コスト

Devcomで,David Brevik氏はBlizzard Northの不朽の名作を完成させるために必要だった「恐ろしいほどの大仕事」を振り返った。

 Diablo 2は,これまでに作られたゲームの中で最も称賛され,影響力のあるゲームの1つだが,その制作過程のストーリーは,過去の成功に基づいて開発を進めようとしているすべてのデベロッパにとって,警告をもたらす物語となっている。

 今週(※先週)開催されたDevcom Digitalでは,David Brevik氏がリリース20周年を迎えたDiablo 2の事後報告を行った。Brevik氏はBlizzard Northの社長として,90年代半ばにこのIPを作ったチームの責任者を務めていた。最初のゲームは成功を収めたものの,その制作には問題がなかったわけではなかったと語った。

 Brevik氏によると,Blizzard Northチームは1996年の感謝祭を発売日にすべく,Diabloの開発に「3,4か月」を費やしたという。最終的にゲームは1997年1月に発売されたが,開発の最終段階での慌ただしさから,チームは続編の開発に乗り出す気にはなれなかったという。

 「数か月間はDiablo 2もなにも作ろうとは考えていませんでした」とBrevik氏はDevcomでの講演の中で振り返っている。

「どんどんデザインを増やしていきました。どうなったと思います? 時間が長く長く長く長くかかりました」

 しかし,Blizzard Northはしばらくの間,このゲームにはやり残したことがあることを明らかに認識していた。Diabloは完璧ではなく,ある重要な点で欠陥があった。それは,Battle.netの初期の形態を使ったオンラインマルチプレイヤーの試みの部分であり,それを支えていたピアツーピアシステムはコミュニティ内でチート行為の「横行」を許していたのだ。

 「我々はDiabloの合法的なオンライン版を作りたかったのです。そこでは本物の経済があり,アイテムを交換することができ,それに意味があるようなゲームです」とBrevik氏は語る。「それが最大の動機の1つでした。人々がDiabloを愛しているのを見ていたのですが,ゲームのオンライン部分がどうなっているかについては非常に批判的で,それは当然のことでした」

 これは,Blizzard NorthのチームがDiablo 2で改善したいと考えていた多くの改善点の中でも最も差し迫ったものであり,そのすべてが「より大きく,より良いもの」を作るという全体的な目標に向かって構築されていた。―これは続編の開発でよく言われる言葉であり,スコープの問題や機能のクリープが発生する余地を十分に与えてくれるものだ。しかし,Diabloでは20人だった人員が40人と2倍の人数で作業しており,多くの主要なツールやプロセスがすでに確立されているため,Brevik氏はDiablo 2は「少なくとも前作の2倍の規模になる」と確信していたという。

「食事を注文したり,寝袋や歯ブラシを渡したり,オフィスで寝泊まりする日もありました」

 Blizzard Northは,より多くのクラス,新しいスキルシステム,2倍の移動方向,より高解像度のグラフィックス,より詳細なキャラクターモデルと環境,ローディング画面をなくすためのゲーム世界のダイナミックストリーミングを追加したいと考えていた。両方のゲームをプレイした人なら誰でも知っていると思うが,続編での進歩は相当なものであり,Brevik氏はこのような野心は代償を伴うものだとDevcomの聴衆に警告した。

 「これらすべてのことが,最終的な激務につながっています」と氏は語る。「クラスを増やしたり,レベルを増やしたり,ストリーミングワールドを作ったり,あらゆる種類の決定をしていたので……2年程度のプロジェクトになると思っていたものが,そうではありませんでした。我々はどんどんデザインを増やし続けて,どうなったと思いますか? どんどん制作期間が長くなっていったのです」

 Diablo 2の目標は1999年のクリスマスだったが,その年の春までには,その目標を達成するにはかなりの時間が必要であることが明らかになっていた。

 「誰もこれを望んでいませんでしたが,当時はそういうものでした」とBrevik 氏は付け加えた。「これは良い決断ではありません。お勧めできません。私は大きな犠牲を払いました。みんなが犠牲になりました。しかし,それはどうしようもなかったのです。我々は,修羅場に立たされました」

Diablo 2:古典的名作を作るための人的コスト

 Brevik氏は,1999年の4月下旬から5月初旬までが繁忙期だったと振り返っている。彼にとって,それは毎日,時には1日14時間以上働くことを意味していた。Diablo 2の開発期間中,週7日,1日平均12時間働いていたと推定される。

 「私だけではありませんでした。誰もが週末に働いていました。何人かは休暇を取っていた。―私は,一部の人には休むことを勧めていたのです― しかし,ほとんどの場合は毎日仕事をしていました」

 「食事を注文したり,寝袋や歯ブラシを渡したり,オフィスで寝る日もありました。このプロジェクトの最後は,悲惨でした。仕事をしていたら,夏が秋になってきて,もう無理だということがはっきりしたんです」

「自分自身,人間関係,人生,そして魂に,信じられないほどの負担をかけました」

 その年の10月,Blizzardのメインオフィスから電話があり,当初の発売目標を達成するにはDiablo 2の開発がまだ遅れているとのことだった。できるだけ早く開発を終わらせるようにとの一般的な指示があったにもかかわらず,ゲームは延期されることが合意されたのだ。この時点でBrevik氏は,「少しずつ作業が楽になってきました」と語っているが,彼をはじめとする多くの人がゴールドマスターに到達するために毎日作業を続けたという。

 「ゴールドマスター(2000年6月)まで続いたこのクランチの全過程で,結局私はが取った休みは3日でした」とBrevik氏は語った。「私がクランチしたのは1年ちょっとでした……。それは自分自身,人間関係,人生,そして魂への信じられないほどの負担でした」

 「最終的にはゲームを完成させて,素晴らしいものになったのですが,それは恐ろしいほどの苦行でした」

 もちろん,これはゲームビジネスの別の時代の話であり,まだゲーム業界ではパクりが根絶されるべき問題として広く認知されていなかった時代の話である。それにもかかわらず,Diablo 2のような称賛されている製品の創造的で技術的な無数の成果を,それがどのようにして作られたのかという文脈の中に置くことは重要である。

 時間がすべての傷を癒すのは当然のことだが,もちろんそれはBrevik氏も明らかにそうである。20年以上経った今でも,Blizzard Northが成し遂げたことは生き続けているが,それを可能にした犠牲はほとんど忘れ去られてしまっている。

 「Diablo 2は今日でも非常に人気があります」と氏は語る。「活気のあるMODコミュニティがあり,Twitchのようなものではとても活気があります。先日Twitchに行ったら2000人以上の人がDiablo 2を見ていました……。ある日の朝,曜日を選ばずにです。20年前のゲームをこれだけの人が見ているなんて信じられません」

 「遺産は続いており,私やチーム,多くの人々が犠牲になってこの製品に多大な貢献をしてきたことは驚くべきことです……。これほどまでに愛されているということは,素晴らしい経験です。我々はそれを手に入れることができてとても恵まれています」



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