「アクセシビリティ」と「難易度」は別物である

Sekiroについての議論は,急速に「イージーモード」の論点をすり替えた批判を拡散した ― この混乱の中で障害を持ったゲーマーの需要は失われつつある。

 ここ数週間,ゲームの難度モードとアクセシビリティについての議論が繰り広げられているのを見ると,実際には苛立たしいほどまったく異なる二つの会話が並行して行われていることは明らかだ ―議論の参加者は主に互いに理解できないと叫んでいるだけである。

 この論争は,フロムソフトウェアの最も妥協のない挑戦的で困難なゲームの一つである「Sekiro:Shadows Die Twice」の発表によって始まった。論争の趣旨は God of WarのディレクターCory Barlog氏らからの洞察に満ちた貢献によって提起されたが(関連英文記事),この問題の議論のために交わされるものの多くは,実際のゲームクリエイターの思慮深いアイデアというよりも,いまだ,ネットミームとしてBuzzったまったく自覚に欠けている「you cheated not only the game...」のTweetにはるかに近いものだった(※Sekiroのレビューに当たってチートツールを使ったレビュアーに対する「you cheated not only the game, but yourself」で始まるTweet)。

 まったく不必要に論議を呼んだ問題の中心にあるのは,多くの人々が 「アクセシビリティ」と「難しさ」の区別ができていないことである。Sekiroの困難さが人々を不当に排除するという示唆に最も狼狽している人のほとんどは,これら二つの概念を混同している。彼らは,「イージーモード」を要求している熟練していないプレイヤーがいるという議論全体を却下する。多くの論文が書かれ,フロムソフトウェアのゲームのイージーモードを付けるという考えを嘲笑うために記録されたYouTubeビデオが何時間分になるのかは神のみぞ知るといったところだ。―陰険で無知な論点すり替えの議論による公然とした侵略は,Sekiroを滅ぼそうとしている想像上の悪のゲーマー軍団を不機嫌な態度で「解体」した。

「アクセシビリティの議論を『イージーモード』の概念に貶めるのは,無知であり不快だ」

 私はこの時点で手を上げて,少なくともこの議論の文脈では,自分自身を悪のゲーマーだと宣言したい。私はSekiroを買っておらず,そして買うことはないだろう。私は数年前にフロムソフトウェアの手に負えないほど許されないゲームを一つ購入した(たしかDark Souls)。そして個人的には,それはお金の浪費だった。私には,このようなゲームで十分うまくなるほどゲームに接続する時間はない。その設定やコンセプトは大好きなので,友達がゲームについて話し合ったり読んだりしているのを聞いて楽しんでいたが,すぐに私はこのゲームのターゲット層ではないことに気づいた。私がゲームをする時間は,一般に仕事のあとの夜遅くの数時間だ。私は,すでに十分なフラストレーションを抱えた1日の終わりに,私を苛立たせるゲームではなく,探索してくつろぐことができるゲームを楽しんでいる。

 数多くの苛立たしい試みのあとでようやくクリアする。私は,ゲーム内で何かを克服することの解放と達成感がいかに素晴らしいものかについて,叙情的に形容する人々の気持ちを完全に理解している。私は単に,もはや自分の人生の中で,ビデオゲームで「git gud」(※腕を磨く:get goodから派生)するのに必要な時間やエネルギーを持っている歳ではないということを受け入れねばならないのだ。それゆえ,私はおそらく二度とフロムソフトウェアのゲームを買うことはないだろう ―そしてそれでかまわない!私は彼らの客ではない。そして私はすべての客に含まれなければならないと思うほど傲慢でもない。ほかのすべてのゲームも私の好みを満たす必要があると主張しなくても,すでに私がプレイできる時間よりも多くのゲームが毎年リリースされている。

 しかし,これが問題だ。私は「git gud」をするのに十分な時間,注意力,欲求を持っていない。一方で,時間,注意力,欲望を持った数えきれないほどの人々がいる。しかし,彼らは「イージーモード」の欠如によってではなく,身障者にもアクセスできるようにするオプションの欠如によって,このようなゲームが彼らの理解から遠ざけられていることを知る。アクセシビリティの議論を『イージーモード』の概念に貶めるのは,無知かつ不快であり,多くのゲーマーに無配慮でエリート主義の傾向が大きく広がっていること示されている。

Sekiroは,難しいゲームでのアクセシビリティオプションの必要性をめぐる議論の中心に位置している
「アクセシビリティ」と「難易度」は別物である

 アクセシビリティは必然的に難しさについてのことではまったくない ―いくつかのケースでは脱線して関連しているが。それは,ゲーム内のアイテムを見分けられるようにさまざまなな形態の色盲用のオプションを用意すること,すべてに適切に字幕をけること,難聴者のため音声キューの代わりにビジュアルキューのオプションを追加すること,あるいは,視覚障害者のためにテキストやHUD要素のサイズを調整させることなどを意味する言葉だ。さらにこれは,標準の装備を使用できない人々にアクセス可能なコントローラをサポートすることを意味する場合もある。そしてまた,アニメーションの速度や別の面からの「難度」を調整することを意味することもある。例えば,反応時間やhand-eye coordination(※目で見て手が反応するまでの時間)に影響が出る状況で,またはより大きくより遅い制御装置の使用が必要な場合などでだ。

 このような選択肢や技術を通じて,障害を持つ人々にゲームへのアクセスを提供することは,単にSekiroに関する議論ではなく,業界全体が目指すものであり,取り組むべきものである。Sekiroは,たまたま非アクセシビリティのとてもひどい例だった(そしてもちろん,すべてのゲームが障害者に対応する必要があると理解していない人々が不平を言うこともあるが,それはアクセシビリティについての話とはまったく別だ)。すべてのゲームは,公平性の有用な定義を満たすように努力する必要がある。これにより,障害や状態に関係なく,ゲーマーがゲームをプレイして楽しむ機会が均等に与えられる。

「すべてのゲームは,自分の障害や状態に関係なく,ゲームをプレイし楽しむための平等な機会をゲーマーに与えるよう努めるべきだ」

 この文脈において,我々は「公正」に関する古い哲学的議論に注目しなければならない。ゲーム制作者は,障害のあるコミュニティや支持者と協力して,機会の平等だけでなく,結果の平等を実現する製品を確実に構築する必要がある。これらの概念の違いを説明するためによく使用される単純な比喩として,低いフェンスの上からフットボールの試合を観戦しようとする3人のものがある。そのうちの2人は身長の高い健常者であり,フェンスの向こう側を容易に見ることができる。3人めは子供または車椅子で,柵の向こう側は見えない。機会が平等であるというのは,彼ら全員が平らな地面に立っているということであり,誰にも特別な利点は与えられていない ―しかし,これは1人の観客が試合を見ることができないことを意味する。結果が平等であるということは,3番めの人に箱や傾斜路を与えることを意味する。その結果,彼は持ち上げられ,ほかの2人と同じ経験を楽しむことができる。

 このとき課題となるのは,健常者のゲーマーと身障者のゲーマーが(それぞれ独自の環境を調整して)同じレベルの難度で楽しめるような一連のアクセシビリティオプションをどうやって作成するかだ。これは,今週(※先週)多くのゲーマーやコメンテーターがしていたような自己満足な議論とはまったく異なるものだ。「イージーモード」の問題は,商業的要請と創造的要請との間の単なる退屈で創造性のない衝突であり,唯一の実際の論理的結論は,フロムソフトウェアがSekiroのようなタフなゲームを作るのは完全に自由だということだ。そのゲームをプレイするかどうかを決めるのも,完全に私(そしてすべての消費者)の個人的な自由だ。

(とはいえ,言うまでもないことだが,フロムソフトウェアが,ゲームを翻案して英語圏で効果的な「イージーモード」を作成して,独創的なビジョンを妥協しなかったことを個人的には少し残念に思う。彼らは単に日本語版のオリジナルゲームを残して,それを理解するのに十分な「git gud」をするようにプレイヤーに言うことはできなかったのだろうか? 私は,想像上のペリシテ人(※教養のない人)の大群に対してフロムソフトウェアの創造的自由を積極的に防御している人たちなら,この決断を完全に支持し,熱心に日本語の本に向かうだろうと確信している)

 そのうえ,もし我々が「イージーモード」の議論に現実的であれば,すでに今やすべてのゲームで,ゲーム実況者という形のイージーモードが存在する。私はSekiroを買うことも遊ぶこともしないだろうが,今週は別の国の私の友人の一人がそれを連続してをプレイするのを見た。私は,物語と世界構築がどれほど展開されているのかを見た。私は自分でプレイする予定のゲームではこういうことはしないが,絶対にプレイしないゲームでは,考えられる限り最高のイージーモードとなっている。―ただ,正直に言うと,これは難しさでロックされているコンテンツに関する議論全体を無意味なものにしている。あなたは,すべてのゲームのボス,ストーリー展開,シークレット要素を好きなだけ誰かのプレイ動画で見ることができる。何がロックされているというのか? 

 それは現代の技術が,「git gud」ゲームの時間や志向のない,私のようなプレイヤーのために生み出した選択肢だ。さて, 「gid gud」する時間と意志を持っているが,開発者側が彼らのニーズに注意を払わず無視しているためにゲームから締め出されていることに気付いた障害者のための選択肢もあるべきだろう。障害者ゲーマーはほかのプレイヤーと同じくらい「コア」になる可能性がある。―彼らはほかのプレイヤーと同様に,終わりのない「YOU ARE DEAD」画面を見る苦痛を共有するのだろうから。

※Googleで調べると,Sekiroとアクセシビリティについて書かれたWebページ24万9000件のうち,516件が「differently abled」を含み,身障者へのアクセシビリティについて明確に言及していた(本記事や比喩を含む)。本論の前提である二つの議論がごっちゃにされているという状況はさほど見られない。ほとんどはゲームを楽しめないことを指して,比較的広義のアクセシビリティ(ユーザビリティに近い)を意図して使用されているように思われる。大手メディアや業界関係者で,この記事のような「アクセシビリティってそういう意味じゃないんだよ」という,ゲーム業界などで使われる狭義なアクセシビリティ(身障者対応など)を説明する記事が見受けられる。そちらも大事なことではあるが議論の本筋からは少しずれているかもしれない。

※本記事はGamesIndustry.bizとのライセンス契約のもとで翻訳されています(元記事はこちら