「死」はどのようにしてゲームに「命」を吹き込むのか

ゲーム業界と「死」の関係が発展していることは,メディアが成熟してきている兆候だ。

 ゲームにおける死は,独特の位置付けにある。純粋な創造的表現がその中心となるほかの芸術形態とは異なり,ゲームにおいてはその創成期の頃から「とにかく生き残る」ということがゴールになってきた。スペースインベーダー,ピットフォール,パックマンから,あふれ返るほど膨大にある近代的なファーストパーソン・シューティングゲームに至るまで,共通点が一つある。それは,死ぬ,または,ライフがなくなるまでプレイし続けるということだ。ほとんどのゲームにおけるこのコア・メカニズムは,プレイヤーにとってはちょっとしたフラストレーション,ゲームの結果を妨げるものではない程度の障害であるだけで,死というものの本質をごまかしている。

 映画で登場人物が死ぬ場合,そこでその人のストーリーは終わる(フラッシュバックのシーンやタイムトラベルの演出でもない限り)。ありがたいことに,近年,多くのデベロッパが,人間のありように本質的に迫る死というトピックに,より適した手法で挑んでいる。
 最近ではカリフォルニアを拠点とするGiant Sparrowが手がけた「フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと(What Remains of Edith Finch)」が,フィンチ家の人々が亡くなるまでの,それぞれの人生を検証することでこの命題を掘り下げている。これは死というものにアプローチするには素晴らしい方法だと思う。なぜなら私たちの死すべき運命は,人が生きることの本質とその目的にごく自然に向き合わせるからだ。したがって,本質的に,死に関するゲームはすなわち生に関するものだといえる。このゲームのクリエイティブ・ディレクターであるIan Dallas氏は,情報サイトMotherboardとのインタビューで「生きているというあまりにも奇妙な経験についてのゲーム」と語る(関連URL)。「死は,生というものがいかに一時的で脆弱なものかということを私たちに念押ししてくれるのです」

「15年前,この驚くべき業界で私が執筆するようになったときに,もし,こんなに繊細なテーマをこのような素晴らしい方法で扱ったゲームをいつかプレイする日が来るかと尋ねられていたら,私は笑ってその場を立ち去ったと思う」

 私は最近,死について考えてばかりいる。好きな著名人たちが立て続けに逝ってしまった。叔父は最近亡くなり,今年1月には父を失ったばかりだ。今まででもっとも耐えがたい出来事であったのはもちろん,完全に回復できるものでもないと思う。だが,とにかく私は進むほかないのだ。私自身が双子の男の子の父親であることもあり,子供たちとのやり取りの中で,自然と父のことを考えさせられたり,また,そこから死後や私の存在そのものについて考えさせられたりすることが多々ある。

 だからこそ,スペインのTequila Worksの秀作アドベンチャーゲーム「RiME」は私の心に思い切り響いたのだろうと思う。

(注意:以下ネタバレあり)

 私がいまだに心の中にはっきり残る悲しみを処理しようともがいているとき,私はTequila Worksのこのゲームで父と息子の愛情関係を本質としたゲーム体験を得た。美しいビジュアルや音楽は置いておいて,このゲームでは実際の対話なしにナラティブを織り上げたことにより,さまざまな解釈の余地を残したといえる。明らかなのは,少年が難破して島に流れついたということだ。その後に起こることは意図的に曖昧なものになっている。そして,本当は彼がすでに死んでしまっていると推測するのは難しいことではないが,フラッシュバックのシーンや周囲の環境やビジュアルをヒントにしながら物語が展開していく手法はとても巧みで,プレイヤーは少年の感情をまるで自分自身のことのように体験する機会を得られるだろう。

Tequila Worksによる「RiME」の美しいストーリーは愛と喪失がテーマだ

 私の解釈では,必死に父親を探し求める少年は,彼が海で溺れて,生きることに執着しているのを象徴するのか,それとも天国への扉を開けることが彼の究極の幸福というメタファーなのか,いずれにせよ煉獄のような状態にあるということだ。そしてスピリチュアルな時空の反対側では,息子の死を嘆き続けている父親がいる。海を見つめ,その手で救うことができなかった息子が船から投げ出されたときにちぎれて残った赤いマントの切れ端を握り締めている。そしてエンディングで,父親はついにその赤い布を宙に放す。喪失を受け入れ,息子と自分の魂を解放するかのように。これまで私はこんなにも心の琴線に触れるゲームに出会ったことがない。

(ネタバレここまで)

 15年前,この驚くべき業界で私が執筆するようになったときに,もし,こんなに繊細なテーマをこのような素晴らしい方法で扱ったゲームをいつかプレイする日が来るかと尋ねられていたら,私は笑ってその場を立ち去ったと思う。いや,「RiME」と「フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと」は一般的なゲームではなく,実際のところ普通のゲーマーは聞いたことすらないのではないかと思う。しかし,ますます多くのデベロッパがゲームにおける芸術というものを押し進めていくにつれ,我々はゲームが,死だけでなく,社会的正義やセクシュアリティ,倫理,道徳などを抱合しますます新たな高みに上っていくさまをを目にすることになるのだろう。

 ハリウッド映画に例えると,すべての「トランスフォーマー」シリーズには「ムーンライト」のような人の心をつかんで離さない何かがある。他方,我々ゲーム業界では,すべての「Call of Duty」に「RiME」のようなものがあるかというとまだそこには至っていない。しかし大きな進歩はあり,その多くが顕在化して来るのはこれからだ。(旧称)ソニー・コンピュータエンターテイメントでかつてプレイステーションの立ち上げメンバーとして活躍したPhil Harrison氏がまさに我々GamesIndustry.bizに指摘したように,映画界は豊かで有意義な物語を作り出すための基本的な理念を創り出すのに実に40年もかかった。「私たちは,豊かな物語展開と豊かなキャラクターの点で同じスピードで進化しているでしょうか?」と彼は問うた。「これは投資家として興味を持って探求しているテーマや質問の一部であり,ゲーム業界は自問しているべき点だと思う」と話した。

「RiME」「フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと」,癌と戦う親子をテーマにした「That Dragon,Cancer」のようなゲームが存在し,それらが生と死の本質に関して問題提起をしているという事実は,実際にこの業界が成熟してきていることの確かな兆候といえる

 ゲームが映画と同じ速度で進化しているかどうかは議論の余地があるが,それはいささか重要度に欠ける。大事なのは今起きていることと,デベロッパや前途有望な才能ある若者たちがメディアをどのように前進させていくかということだ。「RiME」「フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと」,癌と戦う親子をテーマにした「That Dragon,Cancer」のようなゲームが存在し,それらが生と死の本質に関して問題提起をしているという事実は,実際にこの業界が成熟してきていることの確かな兆候といえる。そして,バーチャルリアリティが徐々に勢いを増す中で,数年前には決してできなかった,人間のさまざまな状態を実体験できる方法で我々はより多くのゲームを経験することになるだろうと確信している。

 多くの文化や宗教では,死は終わりではない。死は再生,まさしく文字通り,霊魂の再生なのだ。Tequila Worksが「RiME」で少年のマントに赤を選んだのが偶然だとは思わない。赤はしばしばスピリチュアルな道程を象徴する。キリスト教では聖霊の昇天,仏教では悟りに由来し,神道では神社の境内にある橋は赤色であることが多い。ゲーム業界は旅の途上であり,死はまさに始まりにほかならない。

※本記事はGamesIndustry.bizとのライセンス契約のもとで翻訳されています(元記事はこちら