映画ビジネスの影から飛び出したゲーム業界

Disneyによる「Infinity」の終了とライセンスモデルへの移行は,ゲームと映画業界の避けがたい離縁への長くゆっくりとした道のりの最後の一歩である。

 Disneyの「Disney Infinity」(以下,Infinity)シリーズのゲームおよび関連する玩具生産中止と,同社のゲーム開発や販売ビジネスからの撤退という同社の発表は,シリーズの開発スタジオであったAvalanche Studioの300名という従業員解雇という惨状(関連海外記事)とともに,多くの驚きをもって迎えられた。
 この発表に際して,玩具連動型「Toy-to-Life」ゲームといわれるジャンルに対するさまざまな疑問が投げかけられた。Disneyの撤退は同ジャンルの大きな失速になるのか,すでに窮屈になりつつある市場を緩和させて,例えばNintendoの「Amiibo」のセールスが堅調なように,より健康的で生き生きとしたものに生まれ変わるきっかけになるのか。そういったことが盛んに議論されたが,結局そうした謎は時間のみが解決するというしかないだろう。

 しかしゲーム業界を長い目で振り返ってみると,Disneyの販売ビジネスからの撤退は,さらに複雑な解釈が必要になりそうだ。Disney,Universal,そしてWarner Bros.といった映画会社が,ビデオゲームのビジネスに参入したのはそれほど昔のことではないが,それがゲーム産業の成熟とメインストリーム市場へのアピールの証拠であると評価され,業界のエクゼクティブたちが新作ゲームの素晴らしさを伝えていく中で,そうした他業種からの関心が強調された。1980年代から2000年大初期までは,映画をライセンスしたゲームでセールスやゲームデザインについて評価されることがなかったとしても,一つのトレンドとしてゲーム業界の飯のタネとなってきた。
 例えば,2003年の「Enter the Matrix」はゲームと映画の関連があまりにも深すぎたために,映画の続編がリリースされたときには,いくつかの登場人物の背景がゲームをプレイしていない人には理解できないという問題を引き起こしてしまったほどだ。

「ここ10年ほどは,映画産業の幹部たちの認識はタイアップ映画の頃のノリからほとんど変わっていない」

 ここで「Enter the Matrix」が映画とゲームのタイアップを減退させたという議論をしていくつもりはないが,砂の上に一つの線を描き示したのは間違いないだろう。トランスメディア化がゲームの垣根を取り払うというような,長い間誇張されてきた幻想を持っていた人々が,「Enter the Matrix」のような直球的なタイアップについて再考したはずだ。「LEGO」シリーズのようなゲーム市場で急激に浸透した成功例があるとはいえ,ビデオゲームへのライセンスを武器にして映画を作るというのは非常に稀有になった。こうした事例が現在発生するとしたら,昨年の「Star Wars Battlefront」のように,マーケティングのパッケージの一つというより,独立した関連商品として売り出される場合がほとんどだ。

 しかしながら,ここ10年ほどは,映画産業の幹部たちの認識はタイアップ映画の頃のノリからほとんど変わっておらず,ゲーム市場への参入は必要であることは理解しつつも,その意義や必要事項についてはほとんど譲歩するだけだった。そうした溝があったにも関わらず,ゲーム企業がエンターテイメント産業としての自信を深めていく中で,ハリウッド業界の重要人物たちに深く関わることなく,自分たちの知的財産を育てていくことと,そうした財産の価値が映画コンテンツ同様に高いものであることを確信するようになった。
 2時間映画のキャラクターやストーリーをゲームに複製することはできないものの,ゲームはさらに深くキャラクターディベロップメントを行うことが可能であり,ゲーム開発者は映画とは異なるクリエイティビティを意識するようになるとともに,プレイヤーは受動的な映画メディアの観衆とは異なる,自由度の高さや深い探索性,そして表現を求めた。

 現実問題として,このことは,ゲームクエリエイターは自分の知的財産を生み出すことに長けていることを意味しており,この10年ほどは知的財産の従来の保有者がゲームコンテンツへの決定権を放棄し,ゲームスタジオがフランチャイズの方向性を模索するような座組み急増している。
 Rocksteadyの「Batman」シリーズが成功したのは,同時期に劇場公開されていたクリストファー・ノーラン監督の映画シリーズと決別し,原作コミックシリーズの流れとは異なるものを生み出すことによって,同じ源泉からさらさまざまなものを深く汲み取りつつ,Warner Brosの映画スタジオが制作していたコンテンツとはまったく関連のない次元でフランチャイズをユニークに表現したわけだ。同じことは「Shadow of Mordor」にも当てはまり,映画シリーズの経過や場所をまったく変えてまでして,原作小説の「指輪物語」でも深く描かれていないエピソードを追求するという手法を採用した。

 こうしたアプローチは,長らくゲームクリエイターには許されなかったことだ。ゲーム開発の古いモデルは,知的財産をライセンスした映画企業からの深い関わりを許し,その方向性についてほぼすべての決定権を与えるというものであった。この時代のゲームスタジオは,原作の映画監督や脚本家,はたまた役者たちとどれだけ近しい関係になるかを誇張することによって,より映画の内容に忠実であるかをアピールしてきた。その事実だけで,当時のライセンスゲームのできの悪さを想像できるであろう。
 「Arkham」シリーズや「Shadow of Mordor」の成功は,そうした映画業界からの指図を否定し,才能あるゲーム開発者たちに創作の自由度を与えたことで生み出されたものだった。このことはハリウッドにとっては難しいものではなく,やる気のある第三者に閉ざされた王国への鍵を渡し,映画スタジオの手法とは異なるやり方で彼らが作り出すものを信じることさえすればよい。

「ゲーム会社が,自分たちも映画制作に関与できるというような興奮のみで,それほど深く考えないまま映画制作者に知的財産をライセンスしてしまうような過ちを犯さなくなった」

 つまり,我々が目撃しているものは,多くは語らない微妙な関係の上に成り立つ映画とゲームの台頭である。「Arkham」「Shadow of Mordor」「LEGO」,そしてある意味「Star Wars」のゲームタイトルにおいて,映画スタジオは自分たちの信頼するゲーム開発者に知的財産のライセンスを与えるという好例が増えている。その一方で,映画そのものがゲーム化されるという事例そのものが減っており,例えばDisney傘下のMarvel Studiosの映画シリーズがゲームになることはあまりない。

「現実問題として,このことは,ゲームクエリエイターは自分の知的財産を生み出すことに長けていることを意味している」

 実際,ゲームが映画化されるという場合も,その判断がかなり慎重になってきている。ビデオゲームをライセンスしたウーヴェ・ボール監督の映画作品群は過去のものになり,ゲーム会社が,自分たちも映画制作に関与できるというような興奮のみで,それほど深く考えないまま映画制作者に知的財産をライセンスしてしまうような過ちを犯さなくなった。
 長いゲーム体験を2時間以内に収めるというのは,その逆と比べると容やすいはずなので,この流れはまだまだ反証される余地もあると思われ,今年中には二つのゲーム業界の偉大な財産である「World of Warcraft」と「Assassin’s Creed」の映画が,かなりの予算や広報力を使ってリリースされる予定になっている。この二つの映画が失敗することになると,ゲームと映画の離縁はさらに加速していくことになり,この二つの異なる性質を持つメディアについて,さらに熟考が重ねられていくであろう。

 広義でいうと,Disneyのゲームビジネスからの脱却は,ここしばらく続けられてきた動きではある。Disneyはすでに知的財産のライセンシングにフォーカスすることを仄めかしており,ゲーム開発については無駄足しか踏めない映画業界から,ゲーム開発者に舵取りをさせることに挑戦していると見ることはできるだろう。Marvel,Star Wars,そしてPixerといった誰もが羨むような知的財産を,Disneyが信頼に足りるゲーム開発者たちに預け,映画監督のビジョンとは異なるといった理由で彼らのクリエイティビティを阻害することなく,ゲーム開発者が自由に創造できる場所を提供していくことになるのだ。ゲームと映画は,まだまだお互いに学んでいくべきことも多いのは事実だが,この二つのメディアはもはや,まったく異なる道を歩んでいるのであり,二つの業界が疎遠になっていくのは止められないはずもないのである。

※本記事はGamesIndustry.bizとのライセンス契約のもとで翻訳されています(元記事はこちら