24Frame代表の追憶オーバードライブ:第2回「Windblown」から始まる追憶


新たな名作の予感がする「Windblown」


 「Windblown」というゲームをご存じだろうか。
 インディーゲームとしてはかなり有名な「Dead Cells」というタイトルを手掛けた開発者たちの新作である。

「Dead Cells」は超テンポと超快感の横スクロール・アクション!
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 「Dead Cells」は当時僕も相当ハマりこんでしまい,社員全員にも購入を勧め,その費用は経費とするという英断を下したほどである。
 今ではこれも「アクションゲームが苦手な社員がいたらどうするのか?」という疑義が唱えられ,一種のパワハラとなり得る時代だ。

 その場合,そんな人間がなぜゲーム会社に就職しようとしたのかが多少疑問ではあるが,それもまた今日的に許容されるべき多様性というものの一端だろう。

「Windblown」は見下ろし画面でのハイ・スピード・アクション!
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 横スクロールだった「Dead Cells」とは異なり「Windblown」は見下ろし画面となった。その切り替えの理由はプレイしてみるとすぐに分かる。

 「Windblown」はマルチプレイが前提となっているのだ。複数のプレイヤーがウロウロするのには横スクロールより見下ろし画面の方が状況をつかみやすくて都合がいい。

 なるほど確かに「Dead Cells」のようにほぼ完成されたたゲーム体験を劇的に変えるには「友達とやれる」は効果的だ。


「マルチプレイ」という圧倒的魅力


思えばそれは僕がまだ子供だった頃から強烈なものとして存在していた
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 僕の思い出の中のマルチプレイの原風景は,なんといってもファミコンソフトの「ダウンタウン 熱血行進曲」である。

 このゲームでは「くにおくん」という熱血硬派な高校生が,なぜか他校と一緒になって運動会で競う。
 もちろん熱血硬派だから徒競走は町内を走り回って行い,なぜか道端に落ちている鉄アレイで敵(他高校の生徒)をぶんなぐってもOK,というなんともおおらかなゲームだ。

 もちろん友達同士でこれをやるとものすごく盛り上がる。その友達を鉄アレイでぶんなぐってやりたくなるほどに。

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 また,スーパーファミコンの時代には「T.M.N.T タートルズ イン タイム」があった。「T.M.N.T」は「ティーンエイジ ミュータント ニンジャ タートルズ」と読む。なぜカメが忍者なのか,カメのティーンエイジとはどういうことか。こんなに興味を惹かれるタイトルは,あまりほかではお目見えしない。

 さらに彼らの戦い方は亀でありながらニンジャでもあるため,ヌンチャクや棍といったカンフー風味のもの。そんなキャラを操作して,友達と一緒に遊ぶことができる。これは今の時代に置き換えて考えても最高級の珍味/贅沢だといえるだろう。

 当然1990年代初頭の子ども世界において,このソフトを所有する友達の家というものは,それだけで遊びに行きたさが爆増するというシロモノだった。

 このようにマルチプレイは僕らの子ども時代から圧倒的な価値を持っていた。それは2025年のゲームのトレンドを視界の端っこで見るだけでも明らかだろう。

 しかし人間とはおかしなもので,これだけ楽しいものがあるにも関わらず,不意に一人になりたがったりするものなのだ。

 僕もそんな子どもの一人だった。
 なので僕の子ども時代のゲームプレイ遍歴は圧倒的に「一人用」のものに偏っている。

左下の圧倒的グラフィックスを予感させる写真が「ラグランジュポイント」のもの

 その中でも印象的なものに「ラグランジュポイント」というRPGがある。これはスーパーファミコンが発売され,すでにファミコンがその役割を終えようとしていた時代に発売されたRPGだ。

 ハードの終焉期に発売されたというのは,トレンドから外れているともいえるが,同時にそのハードの機能を最大限に引き出しているともいえる。

 このゲームはまさにそんなゲームで,独自のサウンドチップを積んでいたり,雑誌の読者参加型の要素を持っていたり,何よりROMカセットがやたらでっかかったりした。

ROMカセットには様々な形があった
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 小学生だった僕はすっかりこのゲームにハマりこみ,一人でこのSF世界の冒険を黙々と進めることになる。

 僕の母親は留守がちな時期もあって,そんな日々の中で母親の不在時にこのゲームをやたら長時間プレイすることに成功したことがあったのだ。

 子ども心に「こんなに長時間ゲームをやっていいのだろうか?」というドキドキ感と,「この物語もいよいよ大詰めだ。いったいどうなるのだろう?」という没入感が相乗されてさらに時間を忘れていく。

黄昏時の冒険は,忘れられないものとなる

 ふと見ると窓の外は夕暮れ。電気もつけず薄暗い家のリビング。
画面の中のプレイヤーキャラも広大な黄昏の大地を歩いている。

 現実においてもゲームにおいても,僕は本当に一人で冒険しているのだということを自覚して興奮し,同時に「このまま行っていいのだろうか」という奇妙でリアルな不安が頭をよぎった。

 ふと視線に気づく。
 それは留守番に来てくれていた祖母の視線だった。リビングでひとり,ゲームに夢中になっている僕を少し前から見ていてくれたらしい。「とがめられるのかな?」と少し言い訳めいた視線を送る僕に,祖母はただゆっくりとうなずいた。
 その目は「ええんやで。そのまま行き」と言ってくれているように僕には思えた。

 そしてそのまま,その日のうちにラスボスを撃破し「ラグランジュポイント」は僕にとって忘れられないゲームになった。

ゲームはいつも冒険を我々に与えてくれる 時には思いもよらない形で
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 かなり昔のある日の出来事。
 もしかしたら僕の「冒険」は,そこから始まっていたのかもしれない。そしてその冒険の先で,僕はゲームを作る側の人間になった。

 残りの人生で自分がどんなゲームを作るのか。それは分からない。でも迷った時には「自分の冒険はあそこから始まったのだ」と,そこに立ち返ればいい。そんな風に考えている。