「24Frameの邪道経営哲学」第5回:レトロゲームを語る時の哲学
「自分のたちのコアとは?」
プロジェクトが中止になり,その直前の作品を総括してみたり,自社開発のためにUnreal Engine 5を試してみたりしていた我々ですが,その中でまず突き詰めるべきは「自分たちの中のコア」だという結論に至りました。使用するツールや環境は,その後改めて決定されていくべきでしょう。
無限のスケジュールが存在しない以上,作品作りには(使用するツールも含めて)取捨選択が発生します。そしてその際の判断の根拠は「自分たちがグッとくる」か否かでしかありません。そのツボはおそらく自分たちが遊んできたゲームの中にあるはずです。
作る側としては「メタルマックス」というシリーズとの付き合いが長い僕ですが,それ以外にも薫陶を受けたゲームは数多くあります。ここではまずそのゲームの数々に思いを馳せるところから始めてみたいと思います。その綺羅星のごとき思い出を点でつないでいけば,いつか何らかの星座に見えることもあるのかもしれない。そんな思いと共に,僕にとって重要なゲームの話をしていきたいと思います。
「RPGは永遠の輝き」
僕の世代のご多聞に漏れず,僕の最初のRPGは「ドラゴンクエストIII」でした。これでRPGというものを知り,同時にかなり長い間これを超える体験をしていない。そんな世代が我々,現代の40代なのではないでしょうか。最近改めてやり直した際には「旅の扉のつながりが複雑すぎて,世界がめっちゃ広大に思えた」というのが新たな発見でした。
「MOTHER」ではスピルバーグの世界観が展開。ドラクエでいう所のオーブの代わりに集めてきた8つのメロディ。それにより完成する母の子守歌でラスボスを撃退。こんな感動的なゲームの(そしてゲームにしかできない)シナリオがかつてあったでしょうか。
「ラグランジュポイント」では本格SFの世界が圧倒的なグラフィックとサウンドで迫ってきます。バッテリーで動く武器,武器の合体,エレベータやシャトルの発着シーン。すべてがカッコいい。バランスもいい。
「サンサーラ・ナーガ」のやたらぶっ飛んだセリフはアニメ脚本家,伊藤和典氏の仕業。ラスボスと目が合った瞬間,今までの村やNPCたちとのやり取りをシャッフルしてゲームそのもののあり方を否定・批評していく様は業界外から,ならではの視点。これには思い余って僕がラップなどしている現象もありますので,恥を忍んでその音源をアップしておきます。
そして「メタルマックス」。個人的にはこれがドラクエIIIの体験に並んだ,ファミコンのRPGの最高到達点でありました。
ちょっとハイブローなところへいくと「ゾイド2」。これは原作がゾイドの設定もやってる人なので町の名前とか世界観がすごくそれっぽいんですよね。「まんくす」とか「みーばろす」とか,海底都市とか,途中で共和国の拠点が攻撃されて滅んでしまう展開なんかは激アツです。
さらにディープな「ホワイトライオン伝説」。これはレベルを「きぼう」,HPを「ゆうき」と呼ぶ記号の置き換えの実践者でした。メルヘンな世界観も面白い。
100万本売れたという作品の続編「ゲゲゲの鬼太郎2」。やくそうが「ヤモリのくろやき」になっていたりと,置き換えの美学が光ります。序盤はバリアで移動範囲が限られますが,これが中々突破できなかった。
これもメジャーではありますが「天地を食らう2」もファミコンではRPG。HPが「兵力」に置き換わり,呪文は「計略」に置き換わる。面白いですね。移動速度が2倍になるアイテム「赤兎馬」を取り逃がして一からやり直したいい思い出があります。
「忍者らホイ!」は桃伝シリーズの傍ら作られたという話ですが,枡田省二さんが入っていたりと令和版桃鉄に近しい布陣。そこまでやる? というギャグの嵐で圧倒してきます。「オーブ」に当たる巻物の一つを手に入れるために野球のミニゲームが入っているとか,けっこう狂気ですよね。
「ミネルバトンサーガ」はその後の「ガデュリン」に続く羅門裕人サーガの発端ともいえる作品(厳密にはPC「暗黒城〜創造神ギャリアンの復活」や「ディガンの魔石」からの歴史がありますけど。これも音楽とシステムがしっかりしているんですよね。ガデュリンのサウンド関連で,FF12の崎元 仁さんが入っていたとか。
「じゅうべえくえすと」は個人的には同系シリーズの「貝獣物語」よりも思い入れが強く,「カブトわり」という技のカッコよさと雪男から宇宙人まで出てくるごちゃまぜな世界観が当時の「ビックリマン」的でしびれます。実際このゲームの企画会社である「バースデイ」さんはまさにビックリマン的なおまけシールの企画なんかもやっていますし。
「闘人魔境伝 ヘラクレスの栄光」はいろいろ意味でイカツかったけど,「ヘラクレスの栄光2」はかなり少年漫画。オーブは「ズイ」に,ラーミアは「ペガサス」に,その置き換えの端正さとは対照的に,装備武器をぶっ壊してくる敵の存在はあまりに衝撃的でした。
「魔神英雄伝ワタル」もファミコンのゲームになっています。これはRPGですがバトルはアクション。ジャンプの挙動が高橋名人と同じなのですがこれは開発会社にちなんで「ウエストンジャンプ」と言って独特の感性が癖になる気持ちよさです。僕も勝利後によく竜神丸を飛び跳ねさせたものです。
アクションRPGに接近するならカプコンの「WILLOW」は外せません。ゼルダライクではありますが,世界観がジョージ・ルーカスの失敗作品であるところが特徴です。悪の女王バブモーダ,湖の精霊チェルリンドゥリア,などのネーミングが不思議で素晴らしい。
「暗黒神話」は基本ADVでボスがアクション。漫画に超有名な原作がありますけど子どもだった僕はその前にゲームで存在を知りました。それでも十分に恐ろしかったですけど。で,高校生で原作を読む頃には「恐怖マンガじゃなかったのね」という変な驚きが。
さらに余談ですが,宮崎 駿の漫画家としての参照点は諸星大二郎ですよね。なぜなのか分からないですけどめっちゃ意識した接近を勝手に感じています。まあご本人も絶賛されているのでそういうことなんでしょうけど。
「バイオ戦士DAN」は横スクロールアクションですが,この時代ですでにメトロイドヴァニアというゲーム性を実現しています。開発はアトラスの初期スタッフという話ですがどうりでよくできていつつもどこかイカれています。いきなりの鬼との押し相撲もそうですけどショップ周りは全般的にいい意味でヤバいメンツです。
「霊幻道士」はステージ制のアクションだけど探索要素もあり,技の多彩さなどがかなり楽しい。キョンシーズ2はクリア不能に思えたものですが,そちらの方が有名になったっぽいことには運命のいたずらを感じます。
アクションゲームで思いだしたのは「火の鳥」「北斗の拳2」ですが……受験中にこの辺りのゲームばかりやっていた僕の黒歴史が蘇ってくるのでこの辺で。
「ローリングサンダー」は映画っぽい雰囲気を持つアクション。この後の「映画的ゲーム」の走りと言えなくもないのかもしれません。
「ロボコップ」は映画っぽいというか映画原作のアクション。映画方面では有名なポール・バーホーベン監督の作品を単純なアクションに。ファミコンではバーホーベン節は感じられませんが元となったアーケード版にはまだ多少アクがあります。原作再現とは関係のない方向性ですけど。
ここに挙げた作品群はぼくの中では印象深いものばかりで,ゲーム性と音楽を中心に素晴らしいものが多くあります。そしてこれらはリアルなグラフィックスを持たず,すべてがドットという記号で語られていました。
記号と置き換え。それは偉大なるゲームの基本となる大前提であると僕は考えます。
しかしその後の歴史としては,ハード面の技術革新により圧倒的な「3Dゲーム」の台頭という流れが起こります。つまり,映画への接近ですね。
具体的には「FF7」からの「メタルギアソリッド」出現。
これによりゲームが映画の文法を取り入れていく流れが世界を席巻していきます。こうなってくると記号化云々ではなく具体的な絵自体のインパクトが重要ですね。
メタルギアなんかは分解してくと結構ファミコン的だったりもするのですが映画的ゲーム,その現在における最高到達点は「Last of us part2」「ゴッド・オブ・ウォー・ラグナロク」などのSIE作品群でしょう。
技術と美術は最高で,ゲーム的にも非常に快適,なのですが記号の世界が持っていた想像の自由は当然ながら制限されます。
仕事柄,映画的なゲームの話もよくするのですが,僕が子供時代に遊んでいたゲームとはやはり隔世の感があります。そして僕の憧憬はどうしても記号の奥の想像の中にあります。
しかしそんなゲームはもう出ない/出せないのかしら,と思っている所に意外な流れが生まれ始めました。
いわゆる「インディゲーム」というものです。
去年はある意味でその界隈は「NEEDY GIRL OVERDOSE」の年だった訳ですが,これも原点的には90年代の美少女ゲーム群だったのでしょう。マーケティング的にはおそらく現代においてそこを参照点にすることに言語化可能な意味はないでしょう。あるのはクリエイターが自己言及した結果としてそれを原点にせざるを得ないという衝動があるだけです。
大企業では通るはずのない企画が作品としてリリースされとてつもないインパクトを放つという現象こそがインディゲームの醍醐味。
我々がリリースした「METAL DOGS」の運営は続いていくとして,その後はシリーズとは関係のない世界に踏み出していかざるを得ない状況が「メタルマックス・ワイルドウエスト」の開発中止の先には広がっています。
その際に我々が言及すべき自己とは上述のRPG群であり,その本質は「記号化」であると我々は考えます。
かつて「エヴァンゲリオン」の庵野秀明監督は自作を振り返りつつ言いました。「誰も振り返らないと思って大声で叫んだら思いの外多くの人が振り向いた」と。
まあ同じように叫んではいるけど誰も振り返らないケースってのが圧倒的多数であり,衝動的な表現がすべてエヴァやNEEDYみたいになるとはまったく思いませんけど,やはりそこが出発点であるというのは真理だと思います。
また,開発中止に伴い今まで受けていた大手のサポートがなくなった場合,我々は「販売計画」などのある程度の強度が担保されたシステムからも外れます。そしてそれと同等の強度あるシステムを構築する力は現時点の我々にはありません。
そんなやつらに衝動以外の何があるというのでしょう? やるしかないのです。
システム云々などという小賢しい業界用語はいったん忘れましょう。
できることをやる。
できることとは「ゲームを作る」こと。
そのゲームはおそらく「記号」により構成される。
その記号で「表現すべき事」とは?
そして,その表現とは現代におけるいかなる層に対して投げかけられるべきなのか?
次回,乞うご期待。