連載「山岡 晃の我以外皆我師」:キモノデザイナー斉藤上太郎氏に伝統と革新を聞く


 「SILENT HILL」シリーズでは本業であるサウンドクリエイターの枠をはみ出してプロデュース業まで手掛けるなど,肩書きに囚われずクリエイティブ活動を展開する山岡 晃氏。そんな氏が日頃から思う“クリエイティブとはなんぞや”という問いに立ち向かうべくスタートしたのが本連載だ。

 ここでは業界にこだわらず,広い意味でクリエイティブな活動をしている方々との対話を通した気づきを得るのが趣旨となる。第2回のゲストは、キモノデザイナーとして国内外で高い評価を受ける斉藤上太郎氏。着物という伝統ある世界から、デニム地やジャージといった素材を使った現代空間にもマッチするキモノという発想は、どのように生まれてきたかのか。山岡氏の興味は尽きない。

へそ曲がりの家だからこそ求められた革新


山岡氏:
 もともと知人から「おもしろい着物があるよ」と教えられて一目惚れしたのが、僕と上太郎さんの着物との出会いなんです。着物の道へと進もうと思ったきっかけなんですか。

斉藤氏:
 僕は今年で創業88年になる京都の染屋(そめや:染め物を使った着物作りを職業とする家)の三代目でして。そう聞くと伝統的なものを脈々と作っていきそうなイメージを持たれるかもしれませんけど、実は斉藤家って初代から新しいモノを作っていくというへそ曲がり家系なんですよ(笑)。

山岡氏:
 へそ曲がりですか!

斉藤氏:
 今でこそ僕らはキモノデザイナーなんて呼ばれていますけれど、戦前の着物はブランド、つまり作家の名前で売ることがなかったんです。それを作家として(反物に自分の名の)判子を押したのが、斎藤家の初代・才三郎と、本郷大田子さんだと言われてます。うちの初代が生きた時代というのは戦中〜戦後にかけての芸術の転換期で、北大路魯山人氏とも交流があったそうです。なので京都の中で「ちょっと変わった着物」というとうちの名前があがるという立ち位置なんです。

山岡氏:
 なるほど。

斉藤上太郎氏
株式会社三才 代表取締役社長。京都で88年続く染屋の三代目として生まれる。27歳でキモノ作家としてデビュー以来、現代空間にマッチするファッションとしてのキモノを追求。定期的なコレクション(ファッションショー)開催に加え、「伝統の進化」「和を楽しむライフスタイル」を提唱し、キモノ以外のデザイン制作を行うなど多方面で活躍している
斉藤氏:
 和装というと大まかに着物と帯になりますが、それぞれはまったく別の家(工房)で作っているので双方の交流はなく、両方から商品を仕入れる呉服屋がトータルコーディネートの仕事を受け持っていたんです。それだと当然、作った着物がどんな帯と合わされてどんな人が着ているのかは、皆目分からなかった。それをうちの父親である二代目・三才がファッションショーを初めて開催して、“スタイルで魅せる”ことを提案し始めたんです。それは、着物が日常的なものから、ハレの日に着る特別なものへ変わっていった時代背景にあわせての必然なんですが、評判の良さに開催直後は問い合わせの電話が止まらなかったそうです。

山岡氏:
 たしかに革新的な取り組みですよね。

斉藤氏:
 というのがあるので、時代時代の新しいことをやるのが斉藤家だったんです。僕はよく型破りとか言われますけど、新しいことをするのがセオリーなわけで、そもそもが異端なわけです(笑)。


#小見出し
「自分のやりたいもの」に気づくまでの道のり

山岡氏:
 今日は上太郎さんの着物を着て取材をさせていただいてますけど、いざ自分で買うとなると身構えてしまって手を出しにくい存在です。だけどいまのお話を聞くと、着物もファッションなんですね。
山岡 晃氏
スーパートリック・ゲームズ株式会社所属のゲームクリエイター。サウンドクリエイターでありつつも、かつて所属したKONAMIでは「SILENT HILL」シリーズのプロデュース業を担当するなど、肩書にとらわれない仕事のスタイルで知られる。ゲーム業界外の著名人との深い交流を持つことからこの連載へとつながった

斉藤氏:
 そうです。洋装だって「このワンピースにはどんな帽子、靴を合わせよう」と考えるのが普通ですよね。ただかつての和装の中ではその考えがなかった。着物に関わる者の世界では伝統をつなぐ,受け継ぐというのが大事にされていますが,僕のところは時代時代にあわせて伝統も変化していくモノという教えです。もちろん先代で師匠である父親の図案にインスパイアを受けることもありますが,それがまったく同じ色、柄では「当代として何もやっていないのと同じ」という考えです。

山岡氏:
 家を継ぐことに抵抗はなかったですか。

斉藤氏:
 父親が病気を患っていたこともあって、大学を卒業してからすぐに父の会社に入社しました。最初は着物のことをやっていましたけれど、ハタチの小僧なりの生意気さもあって。「20〜30歳も年齢が離れたオッチャン・オバチャンに自分の作りたいモノを提案しても分かってもらえない」と斜に構えてまして。そこで一度、洋服の部門を立ち上げるんです。そして服を作って世に出すまでの流れを独学で約7年間学んでいきました。

山岡氏:
 それが着物の道に戻ったのはいつでしょう?

斉藤氏:
 27歳のときに取引のあった大手の問屋さんから「在庫などの面倒は見るから、着物もやってくれ」と言われたんです。心根ではアバンギャルドなモノを作りたかったのですが、その気持ちを押し殺して“売れそうなモノ”を作って一度めの個展を行ったんです。そしたら見事に評判が悪くて。自分の作りたいモノを作ってるわけじゃないので熱はこもらないし、周囲からは文句を言われるしで散々な結果でした。


山岡氏:
 本心でないのでは情熱も生まれませんからね。

斉藤氏:
 1回目が自分としてあまりに面白くなさすぎたので、「どうなってもええわ。これがダメなら着物はやめよう」という気持ちで、2回目は別注(特別注文)で生地を用意したりと自分のやりたいようにやったんです。そうすると不思議なもので評判も成績も良くて。そのときに「ああ、分かっていなかったのは僕のほうだった」と気付かされたんです。ちゃんと新しいモノも着物業界は受け入れてくれるんだと。

山岡氏:
 ある意味キレてよかったと。

斉藤氏:
 そうですね。伝統の世界って大胆なこと、尖ったことが嫌われると思っていたんですけど、それは自分がそう思っていただけ。挑戦から逃げていたんですね。それが27歳のときに気づけて、世に認めてもらえたのは幸いでした。技術を極めようとする職人の世界では40代でも小僧扱いですけど、デザインやスタイルをウリにしている工房だったことも幸運でしたね。自分の作品と真摯に向き合うというプレッシャーは父親の姿を見て分かっていたつもりでしたが、自分自身が手掛けてみないと本当のところは分からない。


山岡氏:
 1回目で“売れ線”を狙った失敗があったからこそ、振り切れたわけですね。

斉藤氏:
 そうです。今思えば1回目から大成功するのがなおいいんですけど(笑)。当時は「オレの作品が分かるか」とイキってましたけど、それは逆に自分をさらけ出すことへの怖さ、勇気や自信のなさがそう思わせていたのだろうなと。


伝統的だからこそ固定概念をぶっ壊す


山岡氏:
 妻が着物を着たときに、最初の下地がキマらないとどんどん着崩れていくのを見て、すごく興味深さを感じたんです。洋服だとそこまで気を使わなくてもいいんですけど、そこが面白いなって。最初の土台から、重ねて重ねてを繰り返してキレイに仕上げるっていうのは、ものづくりに近いものがあるなと思いました。

手間をかけて身につけるのも着物の良さです。便利一辺倒の合理性だけではないところに面白みがあって、そこに文化やルーツがある


斉藤氏:
 おっしゃるとおりで、女性は特に長襦袢を着ますから、最初の土台がしっかりしていないと着崩れの原因になります。そこは着物の難しさでもあるんですけど、簡単に分かってもつまらないんですよ。例えば、アンティークカーって自分でオイルやパーツの交換をしてメンテすることが醍醐味です。もちろんメンテナンスフリーの車も素敵なんですけど、マニアとして愛着を持てるのかというね。僕もユースフルな着物を作ってはいますけれど、手間をかけて身につけるのも着物の良さです。便利一辺倒の合理性だけではないところに面白みがあって、そこに文化やルーツがある。

山岡氏:
 着物ってそうした昔からの伝統や形式がありますが、そうした中で独自性を出すための原動力ってなんでしょうか。

斉藤氏:
 一番大きいのは危機感ですね。着物は“嫁入り道具”のようにファッションとして身につけられることがなく、放っておいては過去のレガシーになってしまう。たとえば,世間には「着物は世界遺産に申請すべき」「博物館を作るべき」という声もあります。注目されるという意味では反対はないですが、“遺産”という言葉に引っかかりがあるんです。これだけ文明が進んで便利な時代になって、世界中が画一化しようとしている今こそ、日本人のルーツとして着物が愛おしく思えるんです。

山岡氏:
 伝統が伝統だけになってしまうことへの危機感というわけですね。

斉藤氏:
 ただそのときに、懐古趣味ではいけない。令和になって自分たちのルーツを新たに発信したいんだけれど、着物と帯だけ新しくてもダメ。メイクやスタイルも含めて、トータルで進化した日本の文化を送り出すことが必要だと思っています。1964年開催の東京オリンピックでは、新幹線が通ったりテレビがカラーになったりと、欧米に追いつけ追い越せとばかりに文化の転換期でした。同じように、次の東京オリンピックもひとつの変わり目として日本人が日本のことに気がつくきっかけとなると思っています。そのために何年も前から発信者として何ができるかを考えてきました。コロナ禍までは予想できませんでしたけどね(苦笑)。

山岡氏:
 上太郎さんのデザインソースって何なのでしょう? アイデアに行き詰まったりはしないんでしょうか。

斉藤氏:
 泉のようにどんどん湧いてくればいいんですけど、煮詰まることもあります(笑)。そのときは、自分の中にある古典に立ち返りますね。先代である父のアーカイブを見に行って、それを再解釈して分解・再構成をする。もっと大きく捉えたスタイルの話でいうと、映画や音楽からインスピレーションを受けることもあります。あと,ファッション雑誌はめちゃくちゃ見ますね。読むのではなくて、見る。印象に残ったベージをやぶって、なにに刺激を受けたかのメモを書いてファイリングしておく。自分自身のアイデアノート代わりでもありますし、スタッフとの共用イメージツールになるんです。

山岡氏:
 そういえば先日千葉の漁港に行ったときに、上太郎さんの着物を着ている人がいて、遠目からでもすぐ分かったんです。ショーを拝見したときにもチェリーやアンティークカー柄があったりと驚かされてばかりで。トラディショナルな世界の中で、自分らしさを出すというのは難しいのではないでしょうか。


斉藤氏:
 昭和の時代から続いてガチガチに凝り固まっている「着物こうあるべき」といった、固定概念を、少しずつ壊していきたいですよね。大正浪漫と言われるように、大正時代の着物は大胆で面白い柄がたくさんある。それって着物がまだファッションだったからあったわけで、「人とは違うモノが着たい」という気持ちから来ているものです。それが昭和になると“お道具”になってしまったことで、お金も手間暇もかけているのに、いざ着てみると同じような柄ばかりの没個性になってしまう。晴れ着というのにちっともハレてない。そう思えるようになったのも、美意識や価値観の変化があってこそですよね。

山岡氏:
 なるほど。

斉藤氏:
 それを踏まえて、僕は着物を着ることで洋服よりもセクシーさやエレガントさといった、その人の個性がにじみ出るようにしたい。単に目立つようなモノじゃないようにバランスを取るのさじ加減が粋(すい)なところなんですけどね。

山岡氏:
 音楽のジャンルでいうとパンクロックみたいです。既存のものをぶっ壊して、自分たちで作り上げていく精神性が。

これからはルールや固定概念を壊しながら新しいモノを作っていく作業をしなければいけない


斉藤氏:
 おっしゃるとおりで、これからはルールや固定概念を壊しながら新しいモノを作っていく作業をしなければいけないと思うんです。そうでないと着物が“過去のつまらないモノ”になってしまう。いまの時代にあった和のクールさを発信しないとダメでしょう。

山岡氏:
 そこはすごく共感できます。そういった気概がある人でも、現実の中では一歩踏み出す勇気が持てないこともある。「自分はこれでいくんだ!」と早くに気がつけたことが幸運だったんでしょうね。

斉藤氏:
 京都は伝統工芸や芸能の街ですが、僕らの同世代でも伝統と新しいものの間で戸惑っている人もいる。そうした京都の文化をどう進化させて、どうスターを生み出していくかは大事だと思います。数十年前の隆盛を極めた時代でこんなことをいったら白眼視されますが、ようやく声高にこういうことが言える時代になりました。それは僕だけではなくて、京都中の職人みんなが危機感を持っている。さりとて新しいだけではダメで、お客さんが求める中でやりたいものをやる。


山岡氏:
 そのバランスはどう取っているのでしょう。奇をてらいすぎたばかりに誰もついてこれないモノもあります。

斉藤氏:
 僕の中では僕の作る着物は“商品”だと思っているんです。ファインアートではなく、工業製品を作るプロセスの中で出来上がってきたもの。ファッションショーで披露したものは、基本すべてが売り物として購入いただくことができます。僕の自分の作るものはストリートで着て個性を磨くものだと思って作っています。

山岡氏:
 アートではなくプロダクトという考え方は最初からあったんですか。

斉藤氏:
 そうです。第三者に「これはアートだ」と褒めていただくのはたいへんありがたく思いますが、僕の口からプロダクトの枠内で作っていると説明します。職人たちのやっていることは、昔から変わっていませんから。たとえば、昔はコピーなんてありませんでしたから、図案(デザイン)を紙にトレースしてくれる職人さんがいるわけです。中にはデジタル化の波に乗ってMacで取り込む家も増えたんですけど、うちはそれを「手で書いたほうが早い」とやらなかったんです。


山岡氏:
 ある意味時代遅れな。

斉藤氏:
 ええ。でもそれが幸いして、デザインの提案をするときに紙の図案を持っていくとものすごく感動されるんです。デジタルが当たり前になったことで、一周遅れで先頭になった(笑)。時代の移り変わりとはいえ不思議なものです。

山岡氏:
 いっぺんデジタルに切り替えてしまうとアナログには戻れませんからね。

斉藤氏:
 僕らにしてみれば昔からやってきた当たり前のことが、時代が変わったことで重要性が増した。一喜一憂して新しいものに飛びつくばかりではなく、ベースをしっかりしておきながらいろんなことを知っていくことが大事なんだと思わされました。

山岡氏:
 最後になりますが、固定概念を破壊したうえで上太郎さんが作っていきたい着物の未来像とはどんなものでしょう?

斉藤氏:
 和装って三千億円以上のマーケットが存在します。日本の伝統文化でそれだけ大きな市場が存在するのって、和装だけなんです。ほぼほぼ国内だけに限ったマーケットではありますけれど、それが見直されるきっかけを作り続けていきたいですね。“救世主”になりたいというとかっこよすぎるかもしれないけれど。

【山岡 晃の学び】
上太郎さんの既成概念を壊し,新しいものを作り出すフローに共感しました。それには責任と勇気が必要です。モノ作りに携わっている多くの人に,同じように共感してもらいたいお話だったといえるでしょう。