オマージュはいつ盗作になるのか?

合法か違法かはともかく,Epic Gamesが補償したほかのクリエイターのダンスをコピーした問題は,同社のモラルに疑問を投げかけた。

 Epic Gamesに,毎週何人のマイナーな有名人に喧嘩を売るかというノルマが設定されているのかどうかについてはよく知らないのだが,それが彼らのKPIの1つだとすると,彼らはこの数か月間大成功を続けている。

 パフォーマー,ダンサー,俳優といった一連の人たちは,彼らのジェスチャーやダンスがEpic Gamesの大人気作Fortniteのエモートとして収録されていることに対する苛立ちをさまざまに表現している(関連海外記事)。とくに,そのうちのいくつかが相談や許諾もないままコスメアイテムとして販売されていることに対して恨みを募らせている。原作者に対して利益を共有しようという試みはまったくなされていない。

 法的な状況はここではまったく明快ではない。しかし広く共通認識としてあるのは,法に照らし合わせた場合にEpic Gamesはなんら間違ったことをしていないということだ。ダンスや振り付けは一般的に著作権で保護されるものではない。

※少なくとも日本の著作権法では,著作物の範囲にはっきりと舞踊が含まれている。日本の著作権法は大陸系のものなのでおそらく英国でも同様の保護内容だと思われ,原文記事へのコメントでは米国においても英国においてもダンスは著作権で保護されるという指摘もある。ダンスが著作権で保護されないというのは,おそらく著者の誤解だと思われる。

 道徳的には,これは確かにダブルスタンダードのように感じられる。―創作ダンスの動作を作った人は著作権を主張できない。しかし誰かがデジタル形式になったダンスをコピーしてアニメーション映画を作って共有したら,Epicは排除することを躊躇わないだろう。

 しかし法律は厳密な法解釈による文書であり,道徳的なものではない。この問題について異議申し立てが行われたら,Epicが技術的に正しいということになりそうである。

「創作ダンスの動作を作った人は著作権を主張できない。しかし誰かがデジタル形式になったダンスをコピーしてアニメーション映画を作って共有したら,Epicは排除することを躊躇わないだろう」

 同様に,法律が厳密な法解釈によるものだとしても,ゲームの成功ないし巣他事を野公的なイメージは感情的ならびに認識的にも地に落ちる ― 「小規模のあまり影響力のないクリエイターから盗作した」という事実は,とくに昨今ではあまり体裁がよろしくない。もちろん,大多数のFortniteファンはこういった問題を耳にすることはないだろう。自分たちで気が付くまでは放っておこう。しかしこういった方法でクリエイターを扱うことは,スタジオのイメージにこびりつき,拭い去ることができないような振る舞いだ。同社の悪行に対するネガティブなイメージないし風評によるダメージを定量化することは難しいが,それでも ― 一部の消費者が興味を失うところから,PR展開から雇用プロセスまですべての仕事に支障が出ることまで― 現実でありうる。

 しかしながら,より広い文化的な問題が影響している。私は実際にFortniteの開発者が合法的犯罪の調整のためにミーティングをしていたとは思わない。そこでコスメエモートの販売でお金を稼いで,ダンサーやパフォーマーの一団を騙そうと決めていたなんてことはないだろう。むしろ,私は,少なくとも最初は,問題があることをやっているという自覚はとくになかったのではないかと想像している。


 部分的にこの根幹となるのは,ビデオゲーム開発分野を超えて長く続いてきたなにか,すなわち,多くの人々が ―とくにクリエイティブでは― 抱いている,他人の専門分野は単純で簡単だという感覚である。これはしばしば,アーティスト,デザイナー,ミュージシャンなどのクリエイティブな職種の人たちは,非常に少ない報酬もしくは無料で働きたいと思っているという馬鹿げた主張にもつながるものである。価格の見積もりや請求書では,「ただの図面!」「ただのポスターデザイン!」「ただの短いジングル!」といった疑い深いコメントも散見される。これらは,その分野のフリーランサー(さらにライター,翻訳者など非常に多くのフリーランスの仕事をしている人たちも)の多くのキャリア形成を難しくしている不幸なバックグラウンドノイズとなっている。彼らはこの種の仕事を過小評価する幅広い文化について語り,―コメントした人は明らかに自身ではできなかったにも関わらず― それは単純で簡単な仕事であり,報酬に値しないと仮定する。結果として「ただの短いダンスだ!」ということになる。

 しかしながら,なにが起こったのかに対するほかの文化的局面はもっと密接にビデオゲームに結びついている。ゲーム業界には,非常に非常に長い歴史を持つ,別の形のメジャーな文化を「オマージュ(敬意)」するという事実がある。―とくに映画が顕著だが,すべての種類のポップカルチャーで見られる。

 もちろん,オマージュはどんな種類のメディアでも一般的なものだ。しかし,弱者かつアウトサイダーとしてのビデオゲームでの状況は,巨大でメジャーな映画,音楽,テレビといった業界とは異なっている。ゲーム業界では,そういった参照がしばしば「オマージュ」の枠を超えて,誰かの作品の丸ごとコピーになってしまうのだ。もちろん,微妙な参照とイースターエッグは一つの手である。それらは賢く,面白く,敬意に満ちた方法でインスピレーションと最愛の作品を肯定している。

 しかしながら,世界的にヒットして何十億ドルも稼いだゲームを作った開発者がどうしたら弱小で影響力の低いアーティストの作った作品を,単純に彼らのゲームに組み込むことが道徳的に問題がないと思うのかを理解するためには,ゲーム開発者たちが,本当に何十年もキャッチフレーズやセリフ,クリーチャーデザイン(1990年代のゲームでギーガーのエイリアンをパクっていた作品は何本くらいあるだろうか?),武器,音楽やシナリオ全体でさえメジャーなメディアから直接ゲームに取り込んですごしていたことを考慮する必要がある。

「法的に正しいか間違っているかはともかく,誰かの作品からダンスやその他のクリエイティブな要素を盗用するなら,それは企業いじめであり,オマージュではない」

 もちろん,ビデオゲームは商業的にも文化的にもメジャーになってきたことで,この種の行為は減少している。―そしてその最盛期でも,それをやっていたゲームのほとんどは「フェアユース」のラインで法解釈的に正しい側にいた。たとえ現在であったら間違いなく訴訟沙汰になるようなものであってもだ。―しかし,何十年にもわたってゲームクリエイターは自分たちを,ハリウッドのような巨大で影響力の強いメディアの文化的創造物を無責任に扱えるチンケな弱者だと見なしていた。クリエイターをインスパイアした映画や音楽からいく分かを哀れなビデオゲームが取り込むことに誰が反対できただろうか? このような行為が法的な一線を越えてしまった場合でさえ,一般的に彼らはそれを持って逃げた。なぜなら,彼らは本当にアウトサイダーかつ弱者であったので,彼らは広く気づかれないようにやっていたからだ。

※フェアユースは日本の著作権には存在しないが,米国では一定の条件で著作物を自由に使えるような仕組みが用意されている。

 世界が変わったのは自明である。Fortniteは,そのダンスが「敬意(オマージュ)」を払っていたなによりも大きな商業的成功を収めたエンタテイメント作品となったのだ。そのデベロッパはまだ自分たちが弱者であるというロマンチックな考えをもとに判断をしているのかもしれない。しかし,今年このゲームはいかなるハリウッド作品よりも,巨額予算のテレビショウよりも利益を上げているのだ。Fortniteのようなゲームは弱者ではない。法的に正しいか間違っているかはともかく,誰かの作品からダンスやその他のクリエイティブな要素を盗用するなら,その行為は企業いじめであり,オマージュではない。

 もちろん,ゲームクリエイターに他人の作品からインスパイアを受けて,自分の作品で巧みに参照する余地はまだまだたくさん残されている。 ―それはいくつかの点で,まさに創造の本質といえる― しかしメディアの成功は責任をもたらす。その責任は,インスピレーションを呼び起こした源が盗作の領域の境界を越えないかを確認することを含んでいる。しかしおそらくより重要なのは,現在では巨大なゲームは文化的に絶対的な強者であることを認識することだ。それはゲーム内での参照やオマージュによって,名誉を主張するクリエイターのキャリアと生活を深刻に踏みにじりうるものなのだ。

※本記事はGamesIndustry.bizとのライセンス契約のもとで翻訳されています(元記事はこちら