もっと暴力的なゲームをより安全に作るには
原作のDoomは1993年にリリースされたゲームだ。その前例のないリアルなグラフィックスによる暴力表現が父兄や教育者の間に道徳的恐慌を引き起こしていた。時が経ち,ゲームではスプライトベースのゴア表現は少しインパクトを失っており,いまでは直前の文章が馬鹿馬鹿しく思えるくらいだ。
Doomが描かれてから四半世紀近くと考えると,暴力のレベルはもはやショックですらなく,おそらく愛情がこめられているとさえいえそうな趣がある。そして昨年の絶賛されたDoomリメイクによって,idSoftwareがシリーズを再起動させるときがきた。このスタジオがまさに考えるべきことは,どのように暴力表現をするかとなんのためにやるかだ。
先月行われたGame Developers ConferenceでDoom rebootのエグゼクティブプロデューサー兼ゲームディレクターのMarty Stratton氏とクリエイティブディレクターのHugo Martin氏はGamesIndustry.bizとの会話の中で最初のDoomが持っていた暴力のコンテキストが長年にわたって大幅に変化していることを教えてくれた。原作の暴力表現が恐ろしくショッキングだったのに対して,彼らがReboot版で目指しているものは,マンガ的な面白さや,彼らの言うところのチェーンソーなしの「死霊のはらわたII」的なものに傾いている。
「我々は悲鳴じゃなく笑顔で行こうとしていました」とMartin氏は語る。さらに「我々が暴力表現について見つけたのは,実際のところ,より安全に,ないしより受け入れられやすく作ることでした。楽しい方向へ持っていたのです。もし手首の傷口からゆっくり血が滴り落ちていたら,それはチェーンソーですから。少し不安な点もあって違った種類のホラーです。もし撃ち殺した誰かの頭からハワイアンパンチの噴水のように血が噴出していたら,それはマンガです。そういうマンガ性を我々は求めたのです」
「我々はDoomでわずか一人の人間も殺しません。罵り声も裸も殺人もありません。考えてみると,実際のところ我々はゲームをうまく飼いならしています」
-Marty Stratton
ここでStratton氏が「誰かの頭」ではなく「デーモンの頭」だとMartin氏の発言の修正で割り込んできた。「彼らはデーモンです」と Stratton氏は語る。「我々はDoomでわずか一人の人間も殺していません。罵り声も裸も殺人もありません。考えてみると,実際のところ我々はゲームをうまく飼いならしています。私はまさに大量の人間を虐殺するゲームをたくさんプレイしてきました。考えなければならないのは暴力とアニメーションについてでしょう。もし人間に対してやるのであれば,我々はまったく違った態度で議論することでしょう。会議に集まり,どうやってピンク色のデーモンやインプを引き裂くのがクールか考えるのは楽しいものです。しかし同じ議論を『どうやって人間を二つに引き裂くか?』ないし,彼の腕を引きちぎって,それで頭を殴りつけるとかであったら状況は変わってきます。それが楽しいかどうかは分かりません」
リブート作品でホラーとコメディのバランスをとる役割は終わったが,昨年のDoomが解決すべき問題はそれだけではなかった。現代風なDoomはどんな見た目になるのかについても問題だった。Doomの初期2作はテンポの速いシューティングゲームだった。それに対し,3作めはテンポの遅いホラー調のゲームであり,プレイヤーは銃を構えるか懐中電灯を持って準備するかを選択しなければならなかった。どっちが最新のAAAゲームの金型としてふさわしいのか,そして開発者たちは2016年のDoomに対して,ほかの人たちはまったく違った期待をしていることに気づいた。
Stratton氏の説明によると「この点で我々は『我々はなにを求めているのか』『Doomをゲームとして前進させるためになにを考えなければならないのか』といった方向に行っていました。我々がいつもユーザーにどうやってゲームに反応させようかと考えているのと同じくらい,― 彼らが考えていること,彼らが求めていると我々が考えていること― かなり初期まで立ち戻りました。それは『Doomはどうあるべきだと考えているか,Doomの将来にどんなゲーム要素を加えたいのか』です。これは本当にDoom IやDoom IIに立ち戻ることでした。そのアクション,トーン,態度,性格,キャラクター,不遜さ……など,これらのすべてのキーワードは初期段階で黒板に書き出されていました。そしてそこから機械的に,速度についてや凄い武器,狂ったデーモン,そして正直に言ってDoomであること自体について進めていきました。早くから悪びれることなく,我々はそこから組み立てていきました」
これはDoomを現在の世代にしない方法の最近の例として役に立った。Doom Rebootに先立って,idSoftwareはDoom 4に取り組んでいた。Stratton氏によると,それはいいゲームだが,Doomぽくないゲームとのことだった。例を挙げると,プレイヤーは海兵隊員というよりも反乱軍のメンバーを演じるといった感じだったのだ。ゲームプレイの観点から言うと,多くの近代シューティングゲームでプレイヤーに脆弱な感じを与えるように設計されたカバーベースのシステムを使っており,進行はゆっくりしていた。
「我々の誰も『脆弱』などというものがDoomに適切な単語だとは考えていません。あなたはステージの中で最も恐るべき存在になるのです」
-Hugo Martin氏
「我々の誰も『脆弱』などというものがDoomに適切な単語だとは考えていません」とMartin氏は語った「あなたはステージの中で最も恐るべき存在になるのです」しかし,Doom4は完全に帳消しにされたわけではなかった。Rebootのオーバー ザ トップ エグゼキューションでのグローリーキルシステムはDoom 4のフィーチャーから生まれたものだ。もっともStratton氏によればそれを“速くてきびきびした”ものにしたそうだが。
もちろん,すべてのものがうまくいっているわけではない。開発チームはプレイヤーの耳に聞こえる声がゲーム全体を通して彼らをガイドするものにしようとしていた。これは標準的なFPSのデバイス,HaloのCortanaに倣ったものものだった。Stratton氏は,こういったデバイスがほかのシリーズでうまくいったとしても,Doomでいいと感じられるわけではないと語った。そしてそれはすぐに廃止されたという。
「我々はなにも強制していません」とStratton氏は語る。「もしDoomらしくないと感じられたものがあったらそれを取り除き,なにかDoomらしくさせるようにします」
このアプローチはゲームのシングルプレイヤーモードにはよい結果をもたらした。しかしStratton氏とMartin氏は,それはマルチプレイヤーではまったく興奮させなかったと示唆している。二人ともマルチプレイヤー(現在も継続して作業中)に誇りを持ち,クオリティの高い体験を提供することを信じている。しかし,彼らはそれぞれが不安を抱いていた。Stratton氏は,1点だけ変えることができたらと語る。そうすれば,ゲーム進行システムをやり直して,ゲーム後に帰ってきたプレイヤーを繋ぎ止めるもっと魅力的でよい“フック”を配置できたていたのにと悔やむ。Martin氏は,マルチプレイヤーの状況がもう少し明確になるメッセージを受け取ることを願っている。開発チームの意図とは異なり,Quake 3 Arenaの線に沿ったアリーナシューターを期待している発言があまりに多いのだという。
こういった問題はさておき,古きDoomの公式がいつももたらしている新しいアイデアや変化を二人が感じていることは明らかだ。
「たくさん働きました」とStratton氏は語る。「それがおそらく我々の最も誇るべきポイントです。ゲームは実際に人々とつながりました。我々はいつも言うのですが,我々は長年のファンに親しまれるものを作りたいと思っています。ゲームプレイの感じや,スタイルやトーン,態度という面からDoomのようなものです。そして我々はそれをかなり高いレベルで成し遂げたと考えています。さらに25年間に2,3作しか出ていないようなゲームに携わった人ならいつも挑戦してきたであろう新たなファンの獲得もできました。新たなジャンルやブランドで新しい人々を連れてこようとしていますが,我々はそれをやり遂げました」
※本記事はGamesIndustry.bizとのライセンス契約のもとで翻訳されています(元記事はこちら)