なぜインディーズゲームは失敗していくのか?

 多くのスタジオが,収益の縮小を経験している。しかし,大半においてその原因はマーケットの現状を誤解していることにある。

 現在,インディーズゲームは特筆すべき時代を迎えている。ツールと流通の一般開放により,あらゆる種類のクリエイターにクリエイティブな可能性と,市場で販売する道が拓かれたのだ。それに伴い,1人で自室で開発しているところから,ある程度豊富な資金を持ち,会社から独立してやっていこうとするベテラン開発者集団まで,さまざまな新しいスタジオが乱立している。ニュースで取り上げられるようなサクセスストーリーは,ゲーム制作を仕事にしたいと夢見てきた誰の目にも投資の炎を燃え立たせる。
 その頂点は,25億ドルで買収された「Minecraft」だろう。そして,かなりどころか,そこそこ売れた程度のインディーズゲームですらも,大金を生み出している。かつてPC向けのゲームを作っていたインディーズのクリエイターたちは,コンソールプラットフォームでも大歓迎されることを知った。世界で大成功を収めているモバイルゲーム開発者の中には,従来のパブリッシャーではなくインディーズにルーツを持つ者も少なくない。

 このような成功は,その実現速度が速いほどゴールドラッシュのような精神状態を作り出すものだ。ごく少人数が途方もなく成功するインディーズゲームを作り出すことで,どれほどのチャンスが転がっているのかが明らかになり,突如として世の中は「Minecraft」や「Canabalt」「Undertale」などに続くヒット作を生み出そうとする人々で溢れかえるのだ。そのほとんどが,最高の意欲を持っている。心に燃える創作の炎と,何かすごいものを作ってやろうという欲求だ。
 だが,その下地にあるゴールドラッシュの精神状態がゆえに,高すぎる期待は深刻な汚染を招く。インディーズの山が金脈であることを知ってツルハシを担いでやってきた者は,銀や銅を掘り当てたところで,どこか肩透かしを食った気がしてしまうのだ。

「驚くほどの数の才能に恵まれた開発者が,マーケティングに一銭もかけず,何の戦略も持たずにインディーズタイトルを世に送り出し,埋もれるに任せるという愚を犯している」

 最近では,多くの人が銅や鉄,あるいは錫を掘り当てている。過去に成功を収めた開発者たちでさえ,将来に翳りを感じている。金はまだそこにある。
 インディーズ業界の収益は,展開されるプラットフォームやサービスが多岐にわたるために測定が難しい。また,「インディーズ」の要件が明確に定義されているわけではないので,境目もやや曖昧だ。それでも,消費者がインディーズゲームに費やす金額が年を追うごとに増加しているというのは広く認識されている。それでも,たくさんの開発者が手にするのは錫なのだ。積み上がった彼らの懸念や苦悩に,あるとき名前が与えられた。「インディポカリプス(インディーズ世紀末)」がそれである。

 インディポカリプスが実在するか否かはともかく,その延長線上にあるものは存在するかもしれない。このような議論は極めてアカデミックなものである。多くのインディーズ開発者が,期待したほどの売り上げを達成することに失敗しているのは現実であり,議論を超えている。これは,わずか数年前には大成功を謳歌していたスタジオにとっては,とくに受け入れ難い失敗であり,ダメージも大きい。
 新しいスタジオがゲームをローンチしたものの鳴かず飛ばずであった場合,不運ではあるものの,その手の挫折は半ば予期されているものだ。経験を積んだスタジオにおいて,その後のタイトルの収益が下降曲線をたどるとき,とくに初期の成功を元手に人を雇って事業拡大していた場合などは,大惨事になりかねない。インディポカリプスがなんであるかはさておき,確かにこのような事象は起きており,その頻度も無視できる数ではない。

 それでは,これほど多くのインディーズ開発者たちが経験している,収益の下降曲線の要因は何なのだろうか。当該ケースを一定数精査し,影響を受けたクリエイターたちと話した結果,どうやら大半のケースでは,3つの大きな問題が(単独で,あるいは複合的に)関わっているようだ。
 1つめは昔からお馴染みの問題である。ゲームのマーケティングでのニーズとコストを理解していないことだ。驚くほどの数の,才能に恵まれた開発者が,マーケティングに一銭もかけず,何の戦略も持たずにインディーズタイトルを世に送り出し,埋もれるに任せるという愚を犯している。多くの場合,これには理解できる理由がある。なんとかゲームを制作する予算をかき集めたような小規模なスタジオには,マーケティングに多額を費やすことなどできないのだ。
 しかし,少なくとも,できるだけ多くの無料のチャネルを通じてゲームの販促を行う計画を実施すべきだろう。あまりにも多くの人が,マーケティングについて,出来の悪いゲームを疑うことを知らない人々に売るときにのみ必要なものであるかのように,後ろ暗いイメージを持っている。実際は真逆である。正しいマーケティングの役割とは,良いゲームの存在を一般の人々に知らせることであり,玉石混交の今日のマーケットにおいては,なんらかの戦略を持たない限り買い手にゲームの存在を知らせることもできないのだ。


「インディーズゲームの続編は,ごく少数の特殊な例外を除いてあまり売れない。それはおそらく,あえてインディーズのゲームを買おうとする消費者は,ほかのどこでも経験したことのない,新しくて独特なものを求めているからだろう」

 おそらく,この問題の影響を受けるのがベテラン開発者であることには理由がある。インディーズ初期のゴールドラッシュ時には,インディーズのゲームであるというだけでエキサイティングであり,リリースされているゲームの数が限られているうちは,ほぼ確実にバイラルマーケティングの後押しを受けられたからだ。
 これは普通のことではない。最初から,当たり前のこととして定着するはずがなかったのだ。新しいアプローチで発売と流通が行えるというエキサイティングなコンセプトが持つ輝きが,初期のタイトルを照らしていたにすぎない。物理的なものであれ,デジタルであれ,これまでに作り出されたあらゆるプラットフォームにおいて,自分の存在を消費者に知らせ,自分の作品は金を支払うに値するのだと伝えるにはマーケティングが必要になるというのが長期的な展開だ。
 インディーズ時代の黎明期に武者震いを覚えた開発者たちが,その興奮が持続するものだと勘違いしたのも無理はない。しかし,いずれは期待よりも辛く,混み合った現実に対応せざるを得ないのだ。

 下降傾向に直面している多くのインディーズタイトルに共通する2つめの要因もマーケティングに関連しているが,こちらは非常に具体的である。ストリーミングなどのオンラインビデオコンテンツに取り組んでいないか,ゲーム内でサポートを提供していないことだ。TwitchやYouTubeは,あっという間にインディーズタイトルにとって圧倒的に重要なマーケティングチャネルとなった。AppleのApp Storeでトップページに掲載されなかった場合,良質なインディーズゲームの売り上げに最も寄与するのは人気のゲーム実況者に取り上げてもらうことである。技術的にも,コンテンツ的にも,ストリーミングに適したものになるようにゲームをカスタマイズしている開発者たちは,全般的に商業的な成功を収めている。これもまた,インディーズゲーム初期の黄金期以降の流れであるため,一部のベテラン開発者たちは見落としているのだ。
 さらに重要なのは,たぶんいくらかのジェネレーションギャップが存在しているということである。ゲーム実況を視聴するオーディエンスは若年層に偏っているが,私が遭遇したゲーム実況に意味を感じないという開発者たち(単純に理解できない人もいれば,生理的に受け付けない人もいる)の年齢層は高いほうに偏っている。たくさんの売り上げをもたらすメディアに対して否定的な態度をとるのは,良いビジネス判断とは言えないだろう。

 最後の要因(少なくとも,私が探り当てたのはこれで最後であるが,このような状況について,他の人たちがどのような共通要因を見出すのかは,ぜひ知りたいところである)は,どちらかと言えば私の心を軽くする類のものだ。インディポカリプスの到来を感じさせる要素の1つは,成功した作品の続編が前作の売り上げに及ばないというものである。
 第1作で手堅い成功を収めた多くのスタジオが,すぐに前作の収益を投資して,あらゆる面で改良を加えた続編の制作に取り掛かる。しかし,客観的に見て明らかに優れているこのゲームは,1作めほど売れないのである。劇的なケースでは,1作めの1%未満しか売れないということもある。1作めよりも改良され,洗練されたゲームを作り上げた開発者は「ユーザーはどこに行ってしまったんだ?」と困惑する。


「インディポカリプスによってもたらされるものがあるとすれば,インディーズゲームの実情,そして現実的に見てどれだけの金額を制作に費やすべきかについての知見だろう」

 端的に言えば,彼らのユーザーは1作めと同じようにオリジナリティが高く面白いほかのゲームに流れてしまったのだ。インディーズゲームの続編は,ごく少数の特殊な例外を除いてあまり売れない。それはおそらく,あえてインディーズのゲームを買おうとする消費者は,ほかのどこでも経験したことのない,新しくて独特なものを求めているからだろう。
 AAAマーケティング理論はこの観点においてインディーズゲームには適用されない。続編の制作というのは,AAA理論では一番手堅い動きだが,インディーズ界隈では,続編であるというだけで消費者は興味を失うため,いかにヒットした第1作に近い内容であるかではなく,どこにオリジナリティがあるかをセールスポイントにすることを迫られる。
 ある意味,これこそが私たちが過去数十年にわたって主張してきたことである。消費者は続編を求めているのではない。オリジナリティを求めているのだ! 開発者にとって,コンスタントにヒット作を飛ばすことはかなりの至難の業であるらしい。しかし,極論を言えば,インディーズの続編に投資するのは避けるべきであるという認識を得ることで,1度成功したために同じゲームを何度も作り続けるという呪縛から開発者は解き放たれ,よりクリエイティブに行動できるようになる。

 上記の要因はいずれも,認識や期待値と現実の間に齟齬があることが原因だ。2012年にうまくいった戦略は,2016年にも効果があると期待されがちだが,マーケットは進化する。大作ゲームで効果的な戦略は,インディーズタイトルにも応用可能であると期待さがちだが,両者の対象マーケットは異なっている。非常に柔軟なマインドと,マーケットの実情を注意深く探る目を持つことは,インディーズ開発者にとって不可欠なスキルだが,地に足のついた現実感覚も欠かせない。インディポカリプスの予兆とされているゲームの多くは,実際のところ数十万ドルの売り上げを叩きだしており,決して業績が悪いわけではない。
 問題なのは,そのクリエイターが過去の成功を基に数百万ドルの売り上げを期待していた点にあるのだ。同様の問題は,延長線上にいくつも存在する。個人開発者にとって数万ドルの売り上げは大きなものだが,オフィスを構えている小規模な専業スタジオにとっては倒産の危機となる。
 明らかに事業拡大を焦りすぎ,インディーズの範疇を超えた予算とプロジェクト規模と格闘しているスタジオもある。インディポカリプスによってもたらされるものがあるとすれば,インディーズゲームの実情,そして現実的に見てどれだけの金額を制作に費やすべきかについての知見だろう。

 直面しているあらゆる商業的な課題に関して,デジタル経済の中で他のセクターと比べて圧倒的にうまく対応しているのがインディーズゲームなのだということは,念頭に置く価値がある。一財産とまではいかなくても,大金を手にするチャンスが,そのようなチャンスをつかむのに十分な抜け目のなさをもつ才能あるインディーズ開発者を待ち受けている。書籍や音楽の業界でデジタル化の荒波に揉まれている小説家やミュージシャンに比べれば,その将来は明るい。インディーズシーンもその商業的な側面も完璧にはほど遠く,誰もが器用に波に乗れるわけでもないが,羅針盤の指し示す先にあるものは地獄よりも楽園に近いのではないだろうか。

※本記事はGamesIndustry.bizとのライセンス契約のもとで翻訳されています(元記事はこちら