VRはなにか大きなモノの布石にすぎないのか?

VRプラットフォームに対する熱狂は,このメディアの根本にある限界を隠し込むかもしれないが,すでに水平線にあるARは“パーソナルコンピューティング”のコンセプトを完全に変革するだけのポテンシャルを持っている。

 開催が近づくE3 2016は,ここしばらくのほかのイベントで見られたように,Virtual Reality(仮想現実:以下,VR)テクノロジーが注目を一身に集めるというわけではない。各プラットフォームホールダーの家庭用ゲーム機ハードウェアについての話題は尽きないし,AAAタイトル新作のラインアップはVRゲームがヘッドラインニュースを掴み取るのをしっかりと阻止している。それでも,RiftとViveが市場にリリースされ,PlayStation VRが今秋にもローンチされようとしている現時点では,E3においてもVRはそれなりに注目され,興奮の渦を作るのは間違いないだろう。

 その興奮の理由の一つは,まだ多くの人がVR体験とはどのようなものになるのかが明らかにされるのを待っているからだ。我々は,VRヘッドセットがどのようなハードウェアになるのか,だいたいの方向性は知っており,すでにVR体験を楽しんでいるアーリーアダプタからの情報も聞き漏れている。
 しかし,その体験が実際にはどのようなものになるのか,どのような消費者層が中心になるのか,どのように市場が変化していくのかといったことは,まだまだほとんど分からないといった状態だ。VRへの興味は,ただの興味ではなく,なにか分からないものに対しての興味であって,この新しい市場を定義するだけのインスピレーションとなる光を求めているのである。

「端的に言って,今のところのVRヘッドセットは,メインストリームになるための十分な人口が利用することができないハイエンドなテクノロジーでしかない」

 E3 2016で我々が見るであろう底流は,多くのVRゲームファンを失望させるものではなく,ここ数か月にわたってより力強く自信をみなぎらせているかのようなものになるはずだ。しかし,ゲーム業界やハードウェア業界の人間の中には,VRはそれほど重要な新市場にならないのではないかと考える人も出てきている。彼らが思うVRの重要性というのは,数年後には台頭しているであろうAugumented Reality(代替現実,以下AR)もしくはMixed Reality(複合現実,以下MR)と呼ばれるテクノロジーを見据えて,VRが決して得ることはできなかったメインストリームの消費者層を取り込むという,本当の聖杯を掲げるまでの布石にすぎないのではないかということなのである。

 VRとAR/MRは親戚のような関係ではあるが,その用途は非常に異なるものである。VRはプレイヤーを現実世界から完全に引き離し,完全に閉鎖されて外の世界を見ることができないゴーグルで視覚を遮ることによって,バーチャルな世界に没入させるものである。その反対にARは半透明のゴーグルやメガネのようなデバイスで,新しい視覚的情報を現実世界の上に重ね合わせるというものである。プレイヤーはまだ周囲の世界を見ることができる。それは, 少し前にGoogle Glassが挑戦していたような簡単なディスプレイ表示であったり,より複雑な3Dオブジェクトを現実の情景に組み合わせて,自分が目にする情報を実際の3Dオブジェクトかのようにインタラクトしたりといったことを可能にするのだ。
 14億ドルという投資を得ながら,今もって公開されたことのないMagic Leapは,そのARヘッドセットについては口を閉ざして開発を進めているだけだが,同社は上記した前者のようなディスプレイ表示型の情報操作を主体とするAR,そして現実世界と3Dグラフィックスで表現されるオブジェクトを同時に介在させる,後者のようなものをMRとする,異なる二つのコンセプトとして捉えることを好んでいるようだ。

 ここにきて,ますます耳にするようになった議論というのは,VRは非常にエキサイティングで興味深いテクノロジーではあるものの,消費者向けの製品となるにはあまりにも制限がありすぎているのではないかということだ。世界とのインタラクションのあり方を完全に覆すであろうAR革命の前座として,やがては消化されてしまうのではないかというものである。これまでVRテクノロジーに多くの開発資源をつぎ込んできた業界人は耳にしたくないことであろうが,この議論は非常に説得力があり,VR市場の狂乱を考えるにあたり,考察に加えるべき価値があるのではないだろうか。

 この理由には二つの基礎となる部分がある。一つはVRヘッドセットは,メインストリームな消費者向け製品になりそうな気配がまったく見られないということであり,これに対する反論が「もう少し様子を見よう」という以外にまったく存在せず,それがVR市場の勃興をフォローしてきた人々が何度も議論を重ねてきたことで得た結論のようになっている。
 端的に言って,今のところのVRヘッドセットは,メインストリームになるための十分な人口が利用することができない,ハイエンドなテクノロジーでしかない。安定したフレームレートでラグのないトラッキングを達成できたとしても,多くの人が3D酔いや目まいのような感覚を覚えてしまうのは避けられていない。
 一つの理由としては,VRはステレオスコピックな深度の認識(stereoscopic depth perception)だけをエミュレートし,実際にオブジェクトとの距離を視覚的に理解するための焦点深度の認識(focal depth perception)はエミュレートできないからではというものがある。いずれにせよ,人によってはこの二つの深度認識が問題ではないこともあるが,VRの利用で吐き気を感じる人も存在するのである。

 酔いの症状の別の理論としては,車やバスで酔いを感じるときの原理とまったく同じで,実際の加速や移動が視覚的なインプットとマッチしないことから違和感を感じて目まいするというものがある。どちらか一つではなく,この両方の理論が酔いと関係あると思われるが,VRヘッドセットを被った途端に酔いを感じる人もいるほどで,長時間の利用により酔いを感じる人も含めれば,その数は決して少ないものではない。実際に,どれだけの人がVRで酔いを感じるのかというのは現時点では完全に調査されておらず,その実態が明らかにされるためにはより多く人が長時間にわたってVRを体験するしか答えを見つける方法はない。ただし,今のところはVRコンテンツは3〜5分程度で一息つけてしまうような短いデモ程度のものがほとんどなのである。

「VRは,本質的にプレイヤーの周囲の世界をブロックすることで表現するようデザインさえており,その表現においてはコンテクストが制限されてしまっているのである」

 VRがメインストリームになりえないもう一つの理由としては,ソーシャル面での問題がある。VRは,本質的にプレイヤーの周囲の世界をブロックすることで表現するようデザインされており,その表現においてはコンテクストが制限されてしまっているのである。
 普通のビデオゲームをプレイして,自分の周囲の風景や人々の存在を理解しながらゲーム世界に没入するというのはまったく別のことであり,プレイヤーの現実世界を完全に遮断してしまうというのは,あまりにも表現法としては飛躍しているのである。そのために,いくつかのコンテクストはVRではまったく表現できず,どれだけのプレイヤーがそうした飛躍を日常で行おうとするのか,それがどれだけメインストリームな社会的行動パターンとして確立されるのかといった,このテクノロジーについての楽観的な意見は存在しない。

 しかしながら,ARテクノロジーにおいては,この二つの問題はかなりの部分で回避できそうだ。プレイヤーはまだ現実世界を認識しており,そこに新しい情報を加えるというARは,VRで酔いを感じる人にとってのハードルを一気に下げるのである(ただ,ARにおいても3Dグラフィックスで表現されたオブジェクトのポジションに違和感を感じるといった焦点距離の問題は起こりえるのであり,このあたりは筆者はどうなるのか非常に好奇心を刺激される部分である。Magic Leapが情報を開示しないのは,こうした問題も想定しているのかもしれない)。
 さらには,スマートフォンを使用しているときと同じように,現実世界から完全に逃避してしまうわけではなく,ARテクノロジーを使って自分だけの視覚情報とインタラクトしながらも,周囲の世界や人々とインタラクトし続けることは可能である。状況によっては奇妙に感じることもあるだろうが,現実世界を完全に遮断したVRテクノロジーよりも,その不自然な状況を乗り越えるのは難しくはないだろう。

 こうしたことよりさらに重要なのは,ARテクノロジーが何をもたらすのかということである。VRはバーチャルな世界に我々を誘うだけだが,ARは現実世界にさまざまな情報を付け加えることができる。現実世界とは,つまり我々が生きるうえでは不可欠な世界なのである。ARテクノロジーは,これまで我々が画面の中だけに閉ざされてきた複雑で膨大な量の情報を,我々の環境に照らし合わせながら利用できるという,これまでの情報の制限を完全に破壊してしまうほどのものであり,我々のデータ利用やコミュニケーションのあり方をこれまでとまったく変えてしまうことになりえるのだ。

「ARの潜在能力が最大限に導き出されれば,もはやパソコンやスマートフォンとしても兼用できるほどに進化したデバイスになるのであり,我々が何時間も日常的に利用することによって情報やテクノロジーとの介在の仕方を根本的に変えてしまうことになるだろう」

 ARヘッドセットの第一陣も,おそらくMicrosoftのHoloLensについて言われる視野角の狭さといった,技術的な制限のある未熟なものでしかないだろうが,より小さく,カッコよく,機能性の高い革新への道筋は疑いないものである。ある時点で機能性に関する転換点がやってくれば,もはや「VRとARの違い」さえも語られなくなるかもしれない。VRは,プレイヤーがときおり利用できるエンターテイメントでしかないのに比べて,ARの潜在能力が最大限に導き出されれば,もはやパソコンやスマートフォンとしても兼用できるほどに進化したデバイスになるのであり,我々が何時間も日常的に利用することによって情報やテクノロジーとの介在の仕方を根本的に変えてしまうことになるだろう。

 もちろん,これはどちらかだけが生き残る,というようなことではまったくない。ARの成功は,VRテクノロジーにとっても長期的には非常に良いものになるはずだが,VRがARという未来的な目標のための布石であるというのであれば,VRはARテクノロジーの中のニッチ分野として活用していくことができるだろう。ARが,我々が利用するテクノロジーのあり方を変革してしまうのに比べて,VRはARデバイスの用途の一つだけを抽出した,AR風テクノロジーをさらに共同利用するためのものとして存続していくかもしれない。

 今回の議論は,現在ARやVRテクノロジーに携わる多くの開発者たちが日々感じ取っている,未来のビジョンになりつつある。もちろん,VRに対する熱狂がすぐさま失われてしまうということではないだろうが,VRは技術的な革新の途中経過でしかないというのは心に留めておくべきではないだろうか。ひょっとしたら,VRそのものは,さらに大きく,さらに革新的なテクノロジーの始まりと言えるかもしれない。スマートフォンが初めて登場したときよりも,ゲーム業界やIT産業にもっとインパクトを与えるような何かが,今始まっているかもしれないのだ。

※本記事はGamesIndustry.bizとのライセンス契約のもとで翻訳されています(元記事はこちら